17 救い主のしるし
「今日ダビデの町にて汝らのために救い主うまれたまえり。これ主キリストなり。汝ら布にて包まれ、馬槽に臥しおるみどりごを見ん。これそのしるしなり」(ルカ二・11〜12)。
めでたいクリスマスが来て御前に喜ぶが、この際われらはいっそう深くわが救い主を知りたく思う。我らの救い主の特色は主たるキリストなることと、彼がみどりごとなりたまいしことと、彼が布に包まれ臥させられたことである。
人間の考えによれば、主がたちまちこの世の王たる権威をもって現れ、悪魔を罰し、人間を救いたもうように思われるが、神の御考えはこれと異なり、イエスは貧民の婦人の胎より自力なきみどりごとなって生まれたもうた。「彼は主の前に芽のごとく、乾きたる土より出ずる樹株のごとく育ちたり。我らが見るべき麗しき姿なく、美しき形はなく、我らが慕うべき見ばえなし」(イザヤ五三・2)。彼は最微最下最弱の点より出立したまい、すべてのことにおいて我らと等しくこの世の試惑に会いたもうた。かくてこそ彼は上より教え導く聖賢ではなく、下より持ち上げ助ける救い主である。彼は我らの真の同情者である。「おのれみずから弱きにまとわるれぱ、また愚かなる迷える者を憐れむことを得るなり」(へブル五・2)。これによって彼は人間の真の代表者として身代わりに立ちたもうことができたのである(ローマ八・3)。
昔ソロモン王が世界無比の壮麗な神殿を建て上げた時、「見よ、天も諸々の天の天も汝を容るるに足らず。まして我が建てたるこの家をや」(列王上八・27)と申したが、我らの主キリストは御殿は愚か、普通の座敷にさえ迎えられたもうことができないで、畏れ多くも彼は布に包まれ、槽に臥させられたもうた。これは主に対する人間の態度と主の忍耐の御生涯を示している。「狐は穴あり、空の鳥はねぐらあり。されど人の子は枕する所なし」(マタイ八・20)。「われは虫にして人にあらず。世にそしられ、民に卑しめらる」(詩二二・6)。彼はついに門の外に捨てられ(へブル十三・12)、十字架に釘付けられたもうた。我らのためにかくまでも忍びたもう御愛はいかばかりであろうか。
愛の広さ――主の愛はすべての時代、一切の国民、あらゆる階級にまで及ぶからこそ、今異邦人なる卑しき我にも届くのである。
愛の長さ――主の愛は永遠より永遠まで続く長い愛である。「われ限りなき愛をもて汝を愛せり。ゆえにわれ絶えず汝を恵むなり」(エレミヤ三一・3)。感謝にたえない。
愛の深さ――いと高き宝座より下って、いと低きところに堕落しいたる我にまで来たり、生命をも与えたもう愛の深さよ。
愛の高さ――糞土よりも汚れたこの罪人を上げて御自分と共に天の栄光の座に着かしめたもうとはいと高き愛である。