第2章 国人に捨てられし時
愛国は人の至誠なり。我の父母妻子を愛する、強ひられて之を為すにあらず、愛せざるを得ざればなり。普通の感能を具(そな)へしものにして、誰か己に生を与へし国土を愛せざるものあらんや。
鳥獣尚ほ且つ其棲家(すみか)を忘れず、況(いはん)や人に於てをや。曾てユダヤの愛国者はバビロン河の辺(ほとり)に坐し、故国のシオンを思ひいでて、涙を流して謡(うた)うて曰へり、
ヱルサレムよ、もし我れ汝を忘れなば、
我が右の手にその巧(たくみ)を忘れしめよ。
もし我れ汝をおもひいでず、
もし我れヱルサレムをわがすべての歓喜(よろこび)の極(きわみ)となさずば、
わが舌を腭(あぎ=上あご)につかしめよ。
(詩篇百三十七篇)
是れ愛国なり、他にあらず。此の真情は我が靈に附着するものなり。否、我が靈の一部分にして、我の外より学び得たるものにあらざるなり。
「如何にして愛国心を養成すべきや」とは余輩が屢々耳にする問題なり、曰く国民的文学を教ふべし、曰く国歌を唱へしむべしと。然れども人若し普通の発達を為せば彼に心情の開発するが如く、彼の体躯の成長するが如く、愛国心も亦自然と発達するものなり。
義務として愛国を高調するの国民は愛国心を失ひつつある国民なり。考を称する子は孝子にあらざるなり。愛国の空言喧(かまびす)しくして愛国の実其跡を絶つに至る。余は国を愛する人となりて、愛国を論ずるものとならざらんことを望むものなり。
故に余は日本国を愛すと云ひて、決て自ら余の徳を賞讃するにあらずして、一人並の人間として余の真情を表白するなり。
余は米国が日本に勝りて富を有し、技芸の盛なるを知る。然れども余は富と技芸との故を以て、余が日本に与へし愛心を米国に与ふること能はざるなり。英国の政治、伊国の美術、独逸の学芸、仏蘭西(ふらんす)の法律が余をして日本人たるを嫌悪せしめし事は未だ嘗てあらざるなり。
コトパキシの高きは芙蓉の高きに勝ると雖も、後者が余の胸中に喚起する感情の百分の一だも余は前者の為に発する能はざるなり。否、コトパキシを見て却て芙蓉を思ひ、ミシシピを渡つて石狩利根を想ふ。是れ真情なり。決して余一人の感にあらず。普通一人並の日本男子にして、此感なきものは一人もあるべからざるなり。
然れども若し愛国が真情なれば、真理と真理の神を愛するも亦真情なり。而して完全なる社会に於ては、二者は決して撞着(どうちやく)するものにあらず。国の為めに神を愛し神の為めに国を愛し、国民挙(こぞ)つて神聖なる愛国者となり得るなり。
斯くの如き社会に於て、人若し国に捨てられしならば、即ち神に捨てられしなり。其時こそ実に人民の声は神の声にして(Vox populi est vox dei)、国に捨てられしとて、天にも地にも訴ふべき人も神も存せざるなり。
然(さ)れども世には真正愛国者にして、国人に捨てられしもの其人に乏しからず。イエスキリスト其一なり。ソクラテス其二なり。シピオ・アフリカナス其三なり。ダンテ・アリギエーリ其四なり。而して公平なる歴史家が裁判を下すに当て、是等人士の場合に於ては、罪を国民に帰して捨てられしものの無罪を宣告せり。
余は現在の余自身を以て不完全なるものと認むると同時に、亦今日の社会を以て完全なるものと認むる能はざるなり。而して余の国人に捨てられしは、其罪或は余にあらん。余の不注意なりし其一なり。余の過激なりしは其二ならん。余の心中名誉心の尚ほ未だ跡を絶たざるあり、慾心も時には其威を逞(たくま)しうするあり。余の此不幸に陥りしは或は是等の為ならん。
嗚呼今之を言ひて何かせん。斯く記すさへも余が隠に余自身を弁護しつつあるなりと、余の愚を笑ふ者あらん。今は余の口を閉づべき時なり。而して感謝すべきは余は默止し居るを得ることなり。然れども普通の情としては忍ぶべからず。
余は余の国人を後楯となし、力めて友を外国人の中に求めざりき。余は日本狂と称せられて却て大に悦びたり。然るに今や此頼みし頼みし国人に捨てられて、余は帰るに故山なく、需(もと)むるに朋友なきに至れり。斯くあると知りしならば、友を外国に需め置きしものを。斯くあると知りしならば、余は余の国を高めんが為めに強く外国を譏(そし)らざりしものを。
余の位置は、可憐の婦女子がその頼みに頼みし良人に貞操(みさを)を立てんが為め頻りに良人を頌揚したる後、或る些少の誤解より此最愛の良人に離縁されし時の如く、天(あめ)の下には身を隠すに家なく、他人に顔を会はせ得ず、孤独寂寥(せきれう)言はん方なきに至れり。
此時に当つて、嗚呼神よ、爾は余の隠家(かくれが)となれり。余に枕する場所なきに至つて、余は爾の懐に入れり。地に足の立つべき処なきに至つて、我全心は天を逍遙するに至れり。周囲の暗黒は天体を窺(うかが)ふに方(あたつ)て必要なるが如く、「第三の天」に登り、永遠の慈悲に接せんと欲せば、先づ下界の交際より遮断せらるるに若(し)かず。国人は余を捨てて余は霊界に受けられたり。
此土(このど)の善美なるは今日まで余の眼を睧(くら)ませり。如何にして其富源を開かんか、如何なる国民教育の方針を採らんか、如何なる政策を以て海外に当らんか、其世界に負ふ義務と天職とは如何、ペリクレス時代の雅典(アテン)、メヂチのフローレンス、エリザベス女王の英国、フレデリック大王の普魯西(プロシア)は交々(こもごも)余の眼中に浮び、我国をして之に象(かたど)らしめんか彼に俲(なら)はしめんかと、寝ても醒めても余の思念は此国土より離れざりしなり。
真(まこと)にや古昔(いにしへ)のギリシャ人は現世を以て最上の楽園と信じ、彼等の思想は現世以外に出でしこと稀なりしとは。余も余の国を以て満足し、此国に勝る世界とては詩人の夢想に読みしかど、又牧師の説教に聞きしかど、余が心中には実在せざりしなり。
余が国人に捨てられしより後は然らず。余の実業論は何の用かある。誰か奸賊の富国策を聴かんや。余の教育上の主義経験は何かある。誰か子弟を不忠の臣に委ぬるものあらんや。余は此土に在つて此土のものにあらず。此土に関する余の意見は地中に埋没せられて、余は目もなき口もなき無用人間となり果てたり。
地に属するものが余の眼より隠されし時、初めて天のものが見え始まりぬ。人生終局の目的とは如何、罪人(つみびと)が其罪を洗ひ去るの途ありや、如何にして純清に達し得べきか、是等の問題は今は余の全心を奪ひ去れり。
而して眼を挙げて天上を望めば、栄光の王は神の右に坐して、ソクラテス、パウロ、クロムウェルの輩、数知れぬ程御位(みくらゐ)の周囲に坐するあり。
荊棘(いばら)の冠を戴きながら十字架に上りしイエスキリスト、来世存在を論じつつ従容として毒を飲みしソクラテス、異郷ラベナに放逐されしダンテ、其他夥多の英霊は今は余の親友となり、詩人リヒテルと共に天の使に導かれつつ、球より球まで、星より星まで、心霊界の広大を探り、此地に決して咲かざる花、此土に未だ見ざる宝玉、聞かざる音楽、味はざる美味・・・余は実に思はぬ国に入りぬ。
実に此経験は余に取りては世界文学の良き註解となれり。ヱレミヤの慨歌は今は註解書に依らずして明白(あきらか)に了解するを得たり。追放の作と見做してのみダンテの『ディビナ・コメヂヤ』は解し得らるるなり。
殊にキリスト彼自身の言行録に至りては、国人に捨てられざるものの争(いか)で其広さ其深さを採り得べけんや。然り余は余の国人に捨てられしより世界人(Weltmann)と成りたり。曾て余はホリョーク山頂に於て、宇宙学者フンボルトが自筆を以て名を記せるを見たり、曰く、
Alexander von Humboldt,
In Deutschlad geboren,
Ein Bürger der Welt
独逸国に生れたる世界の市民 アレキサンデル・フォン・フンボルト
嗚呼余も亦今は世界の市民なり。生を此土に受けしにより、此土の外に国なしと思ひし狭隘なる思想は、今は全く消失せて、小なきながらも世界の市民、宇宙の人と成るを得しは、余が余の国人に捨てられし目出度(めでたき)結果なり。
然らば宇宙人となりしに由り余は余の国を忘れしか。嗚呼神よ、若し我れ日本国を忘れなば、我が右の手にその巧(たく)みを忘れしめよ。若し子たるものがその母を忘れ得るならば、余は余の国を我れ得るなり。無理に離縁状を渡されし婦(をんな)は其夫を慕ふこと益々切なるが如く、余も亦捨てられし後は余の国を慕ふこと益々切なり。
朝(あした)は送るに良人なく、夕(ゆふべ)は迎ふるに恋人なく、今は孤独の身となりて、斉(ととの)ふべきの家もなく、閑暇勝ちにて余所事に心を使ひ得るにもせよ、朝な夕なに他の女子が其の良人を労(いた)はるを見て、我れ独り良人と共にありし昔を忘るべけんや。嗚呼神よ、我が良人をして恙(つが)なからしめよ。彼の行路をして安からしめよ。
今我れは彼に従ひて真心を尽す能はずとも、若し我が祈祷にして彼を保護するの力あらば、此賎婦の祈祷を受けて彼の歩行(あゆみ)を導きたまへ。尚又此身にして彼の為めに要せらるるならば、何時なりとも爾の御意(みこころ)に任せ、彼の為めに之を使用し給へ。此身は爾のものにして、爾の為めに彼に与へしものなり。我に属せざる此命は、彼の為めにとならば何時なりとも捧ぐべしとは、我の既に爾の前に誓ひし処なり。
然れども神よ、若し御意ならば我をして再び我夫の家に帰らしめよ。勿論我は爾を捨てて我夫に帰る能はず。是れ爾に対して罪なるのみならず、亦我夫に対して不貞なればなり。爾のしろしめす如く我夫に天地の正気の鍾(あつ)まるあり、その壮大なること富岳のごとく、其香ばしきこと万朶(ばんだ)の桜の如く、其秀(しう)其芳(はう)万国与(とも)に儔(たぐひ)し難し。
我れいかでか此夫を欺くべけんや。彼の正気は時に鬱屈することありと雖も、明徳再び光を放つ時は、宇宙に存する渾ての善なるもの渾ての美なるものは、彼の認むる所となるなり。偽善諂媚(てんび)は彼の最も嫌悪する所なり。
我は彼の威厳を立てんが為めに我の良心に従はざるを得ず。唯願ふ神よ、若し彼に誤解あらば爾の聖霊の力に依りて之を氷解せよ。若し彼に迷信の存するあらば爾の光を以て之を排除せよ。而して我れ再び彼に帰し、彼れ再び我と和し、旧時の団欒を回復し、我も亦彼の一臂(いつぴ=片腕)となり、彼をして旭日の登るが如く、勇者の眠りより醒むるが如く、此歴史上危急の時に方つて世界最大国民たらしむるの一助たらんことを。
余は知る、誤解の為めに別れし夫妻の再び旧(もと)の縁に復するや、其情愛の濃(こま)やかなる前日の比にあらざる事を。余も亦此国に入れられ、此国も亦其誤解を認むるに至らば、其時こそ余の国を思ふの情は実に昔日に百倍する時ならん。
嗚呼余は良人を捨てざるべし。孤独彼を思ふの切なるより余の身も心も消え行けど、此操(みさを)をば破るまじ。よし余は和解の来るまで此浮世にはながらへ得ずとも、何時か良人が余の心の深底を悟る時もあらん。貞婦の心の一念よりして彼の改むる時もあらん。最後(をはり)まで忍ぶものは福(さいはひ)なり。余も亦余の神の助にて何をか忍び得ざらんや。