第3章 基督教会に捨てられし時

注意 茲に用ふる基督教会並に基督信者なる語は、普通世に称する教会並に信者を謂ふものにして、何れが真何れが偽なるかは、全能なる神のみ知り給ふなり。

人は集合動物(gregariousanimal)なり。単独は彼の性にあらず。白鷺の如く独り曠野に巣を結び、痛烈なる悲声、聞くものをして戦慄せしむる動物あり。飜魚(まんぼう)の如く大洋中箇々に棲息し、唯寂寥を破らん為めにか空に向て飛揚を試むる奇魚あり。又は狸の如く好んで日光を避け、古木の下或は陰鬱なる岩下の間に小穴を穿ち、生れて生んで死する動物あり。

然れども人は水産上国家の大富源なる鰊(にしん)、鱈、鯖魚の如く、南米の糞山(ふんざん)を作る海鳥の如く、又ロッキー山を攀(よ)ぢ登る山羊の如き集合動物あり。実に古人の言ひしが如く、単独を歓ぶ人は神にあらざれば野獣なり。

余はこの不信国に生れ、余の父母兄弟国人が嫌悪せる耶蘇(ヤソ)教に入れり。余の初て此教を聴きし頃は全国の信徒二千に満たず、殊に教会は互に相離れ居たれば、此新来の宗教を信ずるものは実に寂々寥々たりき。

然れども一たびその大道を耳にしてより、これを以て自己を救ひ国を救ふ唯一の道と信じたれば、社会に嫌悪せらるるにも関せず、余の親戚の反対するをも意とせず、幾多の旧時の習慣と情実とを破りて新宗教に入りしことなれば、寂寞の情は以前に倍せしと同時に、又同信者に対する親愛の情は実に骨肉も啻(ただ)ならざりき。

当時余は思へらく、基督教会なるものは地上の天国にして、其内に猜疑憎悪の少しも存する事なく、未信者社会に於ては万事に懸念し、心の存せざる事を言ひ、存する事を言はざるも、此新社会に於ては全教会員が皆心霊に於ける兄弟姉妹なれば、骨肉にも語り得ぬ事を自由に語るを得、若し余に失策あるとも誰も余の本心を疑ふものはなきことと確信し、其安心喜楽は実に筆紙に尽し得ぬ程にてありき。

嗚呼なつかしきかな余の生まれ出でし北地僻幽(へきいう)の教会よ。朝に夕に信徒相会し、木曜日の夜半の祈祷会、土曜日の山上の集会、日曜終日の談話、祈祷、聖書研究、偶々(たまたま)会員病むものあれば信徒交々不眠の看護をなし、旅立を送る時、送らるる時、祈祷と讃美と聖書とは我等の口と心とを離れし暇は殆どなかりき。

偶々外(ほか)より基督信徒の来るあれば我等は旧友に会せしが如く、敵地に在つて味方に会せしが如く、打悦びて之を迎へたり。基督信徒にして悪人ありとは、我等の思はんとするも思ふこと能はざる所なりき。

然れども此小児的の観念は、遠からずして破砕せられたり。余は基督教会は善人のみの団体にあらざるを悟らざるを得ざるに至れり。余は教会内に於ても気を許すべからざるを知るに至れり。加之(しかのみならず)余の最も秘蔵の意見も、高潔の思想も、勇壮の行為も、余をして基督教会に嫌悪せらるる者たらしむるに至れり。

余は基督教の必要なる本義として、左の大個条を信ぜり。即ち

主たる爾の神を拝し惟之にのみ事ふべし。 (出埃及記(しゆつエジプトき)二十章三ー五節、申命記十章二十節、マタイ伝四章十節)

而して余は神と真理とを知る唯一の途としては、使徒パウロの語にして、ルーテルが彼の信仰の城壁と頼み、プロテスタント教会の基礎となりし左の聖語に依れり。即ち

兄弟よ、我れ汝等に示す、我が曾て汝等に伝へし所の福音は人より出づるにあらず、蓋しわれ之を人より受けず亦教へられず、惟イエスキリストの黙示に由りて受けたればなり。 (ガラテア書一章十一、十二節)

之等の確信が余の心中に起りたればこそ、余は意を決して余の祖先伝来の習慣と宗教とを脱して、新宗教に入りしなれ。余は心霊の自由を得んが為に基督教に帰依せり。僧侶神官を捨てしは、他種の僧侶輩に束縛せられんが為めにあらざりしなり。

宇宙の神を以て余の真の父と尊(たふと)み、彼自身よりの黙示を以て真理の標準と信じ、己の一身を処するに於ても、余の国に尽さんとするに方つても、基督教会に対する余の立場に於ても、余は悉く此標準に依りて行はん事を努めたり。

然るに余の智能の発達するに従ひ、余の経験の積むと共に、余の信仰の進むと同時に、余の思想並に行為に於て屢々かの基督教先達者、この神学博士と意見を全く同うするを得ざるに至れり。

或は余の一身を処する上に於て、忠実なる一信徒より忠告を蒙るあり。曰く「君の行為は聖書の明白なる教訓に反せり、君宜しく改むべし」と。親愛なる友人の忠告として余は二度三度己に省みたり。然れども沈思黙考に加ふるに祈祷と聖書研究の結果を以てし、而して後友人の忠告必しも真理ならずと信ずる時は、已むを得ず自己の意志に従ひたり。

友人は余を信ずるを以て敢て余の彼が言に従はざるを忿(いか)らずと雖も、余を愛せざる兄弟姉妹(?)の眼より見れば、余は聖書の教訓に逆らひしもの、キリストより後戻りせしもの、特殊の天恵を放棄せしものとなるに至れり。

余の神学上の思想に就ても、余の伝道上の方針に就ても、余の教育上の主義に就ても、余は余の真理と信ずる所を固守するが為めに、或は有名博識なる神学者に遠ざけられ、或は基督教会内に於て非常の人望を有する高徳者より無神論者として擯斥(ひんせき)せられ、終には教会全体より危険なる異端者、聖書を蔑(ないがしろ)にする不敬人、ユニテリアン(悪しき意味にて)、ヒクサイト、狂人、名誉の跡を逐ふ野心家、教会の狼等の名称を付せられ、余の信仰と行為を責められるるに止まらずして、余の意志も本心も悉く過酷の批評を蒙るに至れり。

嗚呼余は大悪人ならずや。余は人も我も博識と認めたる神学者に異端者と定められたり。余は実に異端者にあらざるか。余に先んずる十数年以前より基督教を信じ、而も欧米大家の信用を博し、全教会の頭梁として仰がるる某高徳家は余を無神論者となりと云へり。余は実に無神論者にあらざるか。

名を宗教社会に轟かし、印度に支那に日本に福音を伝ふる事十数年、而も博士の号二三を有する老練なる某宣教師は、余をユニテリアンなりと呼べり。余は実に救主の贖罪を信ぜず自己の善行にのみ頼むユニテリアンならざるか。

伝道医師として有名なる某教師は、余は狂人なりとの診断を下せり。余は実に知覚の狂ひしものなるか。

教会全体は危険人物として余を遠ざけたり。余は実に悪鬼の使者として緬羊(めんやう)の皮を被(かうむ)りながら、神の教会を荒らすために世に産出されし有害物なるか。

余を悪人視するものは万人にして、弁護するものは己一人なり。万人の証拠と一人の確信の何れが重きや。然らば余は基督信者にはあらざりしなり。余は自己を欺きつつありしものにして、余の真性は悪鬼なりしなり。何ぞ今日よりは基督信徒たるの名を全く脱して普通世人の生涯に帰らざる。

否、之に止まらずして、余の今日迄基督教のために尽せし信実と熱心とを以て、余を敵視する基督教会を攻撃せざる。何ぞ余の敵(あだ)の神に祈るを得んや。何ぞ余の敵の聖書を尊敬し研究するを得んや。余はユニテリアンなり。無神論者なり。偽善者なり。神の教会に属すべからざるものなり。狼なり。狂人なり。よし今より後はヒューム、ボーリンブローク、ギボン、インガーソルの輩を学び、一刀を基督教の上に試みばや。

此時に方つて余の信仰は実に風前の灯火(ともしび)の如きものになりき。余は信仰堕落の極点に達せんとせり。憤怨は余をして信仰上の自殺を行はしめんとせり。余の同情は今は無神論者の上にありき。

余はジョン・スチュアト・ミルの死を聞いて神に感謝せし某監督の無情を怒れり。トマス・ペーンの臨終の状態を指摘して意気揚々たりし神学者の暴慢を憤(いきどほ)れり。

嗚呼幾許の無神論者は基督教会自身の製出になるや。余は曾て聞けり、無病の人を清潔なる臥床(ねどこ)の上に置き、而して汝は危険なる病に罹れる患者なれば今は病床の上にあるなりと側(かたはら)より絶えず彼に告ぐれば、無病健全の人も直(ただち)に真正の病人となると。人をして神より遠ざからしめ、神の教会を攻撃するに至らしむるものは、悪鬼と其子供とに限らざるなり。

然れども神よ、我が救主よ、爾は此危険より余を救ひ給へり。人、聖書を以て余を攻むる時、之を防禦するに足る武器は聖書なり。教会と神学者は余を捨つるも、余の未だ聖書を捨つる能はざるは余が未だ爾に捨てられざる徴候なり。

余は爾の僕(しもべ)ルーテルが「我れの福音なり」と言ひて縋(すが)りし加拉太(ガレテヤ)書に行かん。而して彼が平易なる独逸語を以て著(あらは)せし其の註解書を読まん。「今よりのち誰も我を擾(わづら)はす勿(なか)れ、蓋(そ)はわれ身にイエスの印記(しるし)を佩(お)びたれば也」と(六章十七節)。

嗚呼何たる快ぞ。余も亦不充分ながらもイエスの名を世人の前に表白せしにあらずや。余も亦余の罪より遁(のが)れんが為めに、イエスの十字架にすがるにあらずや。

余の信者なると不信者なるとは他人の批評如何に由るにあらずして、余にイエスの印記あるとなきとに由るなり。「義人は信仰に依て生くべし」(三章十一節)と。然り余は今は自己の善行に依らずして、十字架上に現れたる神の小羊の贖罪に頼めり。此信仰こそ余が神の子供たる証拠なれ。

キリストを十字架に釘(つ)けし者は悉く悪人、無神論者なりしか。彼の弟子を迫害しながら、神に尽しつつありと信ぜしものもありしにあらずや。

ヨブの友等はヨブの不幸艱難を以て彼の悪人たるの証拠となせり。然れども神は彼の三人の友に勝りてヨブを愛し給ひしにあらずや。人をして衆人の誹毀(ひき=悪口)に対し自己の尊厳と独立とを維持せしむるに於て、無比の力を有するものは聖書なり。聖書は孤独者の楯、弱者の城壁、誤解人物の休所(やすみどころ)なり。之に依てのみ、余は法王にも、大監督にも、神学博士にも、牧師にも、宣教師にも抗する事を得るなり。

余は聖書を捨てざるべし。他の人は彼等に抗せん為めに聖書を捨て、聖書を攻撃せり。余は余の弱きを知れば聖書なる鉄壁の後に隠れ、余を無神論者と呼ぶもの、余を狼と称するものと戦はんのみ。何ぞ此堅城を彼等に譲り、野外、防禦なきの地に立ちて、彼等の無情、浅薄、狭量、固執の矢に此身を曝(さら)すべけんや。

With one voice, O world,though thou deniest,
Stand thou on that side-for on this I am !

世人の同音一斉に我を拒むとも
彼等は彼方(かなた)に立て、我れ独り此方(こなた)に立たん。

時に悪霊余に告げて曰く『汝未だ若年、経験積まず、学修まらず。何ぞ汝の身を先達、老練家の指揮に任せざる。自己の言行を以て最良なるものと見做すは平凡人のなす処にして、汝が他人の言を容れざるは是れ汝が高慢不遜なるの証拠なり。汝は自己を以て最も才智ある、最も学識ある、最も経験あるものと為すや』と。

余は余の無学無智なるを知る。又大監督、神学博士の盛名決して軽んずべからざるを知る。然れども余の無学なるが故に余の身も、信仰も、働きも是等高名の人の手に任すべしとならば、余は未だ自己を支配する能はざる者なり。余にして若し是と彼とを分別するの力なきならば、余は誰に由て身を処せんや。

見よ彼等余の不遜を責むるものも、又相互に説を異にするにあらずや。監督教会は自己の教会を称して TheChurch(唯一の教会)と云ひ、一方には羅馬(ローマ)教会の擅行(せんかう)を非難しながら、他方には他の新教徒に附するに分離者(Dissenters)とか非国教徒(Nonconformists)とか聞き悪(にく)き名称を以てするに非ずや。

余は組合派の教師が余が最も尊信するメソヂスト派の教師を罵詈するを耳にせり。ユニテリアンはオルソドックスの迷信を嗤(わら)ひ、後者は前者の不遜異端を責むるにあらずや。

其他長老派の固陋なる、浸礼派の独尊なる、或は「クリスチャン」派とか、新ヱルサレム派とか、ブラダレン派とか、各々其特殊の教義を揚言し、自派を賞讃して他派を蔑視するにあらずや。

博識才能、何ぞ一派の専有物ならんや。余にして若し自ら自己の信仰を定むる能はずとならば、余は果して何れの派に己を投ずべきか。カーヂナル・マニングが天主教会(=カトリック)の高僧なりしが故に余は法王の命に従ふべきか。監督ヒーバー、ヂーン・スタンレーが英国監督派なりしが故に余は監督教会に属するべきか。ジャドソンが浸礼教会の人なりしが故に余は「バプチスト」たるべきか。リビングストンが長老教会の人なりしが故に余も亦彼と教派を同うすべきか。

若し人物を以て余の教会上の位置を定むべしとならば、余はユニテリアンたるべきなり。何となれば、余の最も尊敬するチャニング、ガリソン、ローエルの如き人はユニテリアン教に属したればなり。

余はクェーカーたるべきなり。何となればジョージ・フォクス、ウィリヤム・ペン、スチーベン・クレレット、ウィスター・モリス等の人々はクェーカー派に属したればなり。

余は普通基督教徒が論ずるに足らざるものと見做す所の小教派の中にも、靄然(あいぜん)たる君子、淑徳の貴婦人を目撃したり。悪魔よ、汝の説教を休(や)めよ。若し余にして善悪を区別し、之を選び彼を捨つるの力を有せざりせば、余は他人の奴隷となるべきものなり。

心霊の貴重なるはその自立の性にあり。我れ最(い)と小さきものなりと雖も、亦全能者と直接の交通を為し得るものなり。神は法王、監督、牧師、神学者輩の手を経ずして直接に余を教へ給ふなり。

嗚呼真理なる神よ、願くは余をして永久の愛に於て爾と一ならしめよ。余は時々多くの事物に関して読み且つ聞くに倦(う)めり。余の欲する処、望む処は悉く爾に於て存するなり。総(すべ)ての博士等をして黙せしめよ。万物をして爾の前に静かならしめよ。而して爾のみ余に語れよ。 (トマス・アー・ケムビス)

他人の忠告決して軽んずべきにあらず。人は自身の面(かほ)を見る能はざる如く、社会に於ける己の位置をも能く見る事能はざるべし。一切万事我意(がい)を押通さんとするは、傲慢頑愚(がわんぐ)の徴にして、我等の宜しく注意すべき事なり。さればとて自己の意見を以て悉く信憑すべからざるものと断念するは、また薄志弱行の徴候なり。茲に博士モヅレーの言を聞け。

It is not partiality to self aloneupon which the idea is founded that you see your own cause best. Thereis an element of reason in this idea;your judgment even appeals toyou,that you must grasp most completely yourself what is so near toyou,what so intimately relates to you;what by your situation you havehad a power of searching into.

–Mozley’s Sermon on “War”.

 人は殊更に能くその申分を判別し得べしとの観念は、必しも自己に対する偏頗心にのみ因るにあらずして、公平なる理由の其中(そのうち)に存するあり。吾人の理性に訴ふるも、吾人は吾人に接近せる、吾人に緻密なる関係を有せる、吾人の位置よりして自由に探求し得る事物に就ては、吾人自ら最も善く是れを会得(えとく)し得べきは明かなり。 (「戦争」と題する説教中博士モヅレーの語)

余は日本人なり。故に日本国と日本人とに関しては、余は英国の碩学よりも米国の博士よりも、より完全なる知識を有するものにして、此国と此民とを教化せんとするに方つては、余は彼等に勝りて確実なる思想を有する事は当然たるなり。

余はアイヌ人の国に至れば、余のアイヌ人に勝る学識を有する故を以て、アイヌ人に関するアイヌ人の思想を軽んぜざるなり。余は小径を山中に求むる時は、余の地理天文に達し居るの故を以て樵夫(せうふ)の指揮を軽視(みくだ)さざるなり。

余の国と国人とに関して余が外国人の説を悉く容れざるは、必しも余の傲慢なるが故にあらず。日本は余の生国(しやうこく)にして余の全身は此国土に繋がるものなれば、余の此国に対する感情の他国人のそれに勝るは当然なり。

利害の大関係ある余の自国に関する余の観念は、他国人の此国に対する観念よりも健全にして確実なりと信ずるは、決して自身を賞揚するの甚しきものと云ふべからざるなり。

又余の一身の処分に就ても、余は余自身の事に関しては最大最良の専門学者なり。神の靈ならでは神のことを知るものなし。余の靈のみ能く余のことを知るなり。余の神に対する信仰また然り。余に最も近く且余の最も知り易きものは神なり。哲学者ライプニッツ曰く。

吾人の心霊以外のものにして吾人の直接に之れを識認し得るものは神のみ。吾人が感能を以て知り得る外物はただ間接にのみ能く之れを認め得べし。

余は余の神を知るに於ては、プロテスタント教徒全体が羅馬法王の取次を要せざるが如く、監督又は「デヤコ」又は牧師又は執事の取次を要せざるなり。

反対論者曰く、若し君の説の如くならば教会の用何処(いづこ)にか存する、人は一箇人として立つ能はざればこそ教会の必要あるに非ずやと。浅薄なる議論なり。見ずや同様なる議論を以て、天主教会は過去千五百年間他の基督教徒を責めつつあるにあらずや。同様なる議論を以てアルビゼンス教徒は殺戮せられ、セルビタスは焼殺せられしにあらずや。

教会なるものは神の子供の集合体にして、無私、公平、仁愛、慈悲の凝結する所なり。真正の信徒ありて教会あるなり。教会ありて信徒あるにあらず。信徒は自然に教会を造るものなり。恰も同じ幹より養汁(やうじふ)を吸収しつつある枝葉は一植物たるが如し。

人は真理を知るの力を有し、直に神のインスピレーションに接するを得るものなりとは、余が基督教の根本原理として信ずる処なり。真理は真理の証明者なり。教会必しも真理の証明者に非ざるなり。教会は真理を学ぶに於て善良なる助なるべけれども、真理は教会外に於ても学び得べきものなり。

The destruction of the theory of theinfallibility of Bible has benn one of the means by which we have bennprevented from resting in the external and mechanical,and driven towhat terrifies us at first as the intangibility and vagueness of theSpirit.

– Rev.J.Llewellyn Davies,in the Fortnightly Review,reprinted inthe Library Magazine of March,1888.

聖書無誤謬説の破壊は、我等をして外形的並に器械的の基礎を捨てしめ、手にて触るる能はざるもの、定義を付する能はざるものとして我等が初め恐怖せし聖霊の土台に頼らざるを得ざらしむるものなり。 (リューエリン・デビス教師の語)

教会無誤謬説も聖書無誤謬説と同じく、中古時代の陳腐に属せる遺物として、二十世紀の人心より棄却すべきものなり。

是れ理論なり、然れども世は未だ理論の世にあらざるなり。愛憎は理論的にあらず、人は服従を愛して抵抗を憎むものなり。仮令余は理論上確実なるにもせよ。余の先輩と説を同うせず其指揮に従はざれば、余は其保護の下に置かれざるは決して怪むべきにあらざるなり。余は教会に捨てられたり。余は余の現世の楽園と頼みし教会より勘当せられたり。

嗚呼神よ、此試煉にして余の未だ充分に爾を知らざる時に来りしならば、余は全く爾の手より離れしならん。然れども爾は余に堪ふる能はざるの試煉を降さず。教会は余が自立し得る時に方つて余を捨てたり。教会が我を捨てし時に爾は我を取り挙げたり。余の愛するもの去つて余は益々爾に近く、国人に捨てられて余は爾の懐に入り、教会に捨てられて余は爾の心を知れり。

教会が余を捨てざりし前は、余は教育外の人を見る実に不公平なりき。余は思へらく基督教外に善人なしと。余は未信徒を以て神の子供と称すべからざるものと思へり。

然るに教会が余を冷遇し、其教師信徒が余の本心をさへ疑ひし時、教会外の人にして却て余の真意を諒察するものありしを見て、余は天父の慈悲の尚ほ多量に未信者社会に存するを悟れり。又教会外に立ちて教会を見る時は、神意の教導に由て歩む仁人君子の集合体と思はるるも、一度其内に入りて見れば猜疑、偽善、佞奸(ねいかん)の存するなきにあらざるを知る。

尖塔天を指して高く、風琴楽を奏して幽(かすか)なる処のみ、神の教会にあらざるを知れり。孝子家計の貧を補(おぎな)はんが為めに寒夜に物を鬻(ひさ)ぐ処、是れ神の教会ならずや。貞婦良人の病を苦慮し、東天未だ白まざる前に社壇に願を罩(こ)むる処、是れ神の教会ならずや。人あり世の誤解する所となり攻撃四方に起る時、友人ありて独り立つて彼を弁ずる処、是れ神の教会ならずや。

嗚呼神の教会を以て白壁又は赤瓦の内に存するものと思ひし余の愚さよ。神の教会は宇宙の広きが如く広く、善人の多きが如く多し。余は教会に捨てられたり、而して余は宇宙の教会に入会せり。余は教会に捨てられて初めて寛容の美徳を了知するを得たり。

余が小心翼々として神と国とに事へんとする時に当つて、余の神学上の説の異なるより教会は余の本心と意志とに疑念を懐き、終に余を悪人と見るに至れり。

嗚呼余は余が他人に審判(さば)きしが如く審判かれたり(マタイ伝七章一、二節)。余も亦教会にありし間(うち)は、余の教会外の人を議するに方つてかくなせしなり。基督教を信ぜざるが故に、未信者は皆信用すべからざる者なり、法王に頼むが故に天主教徒は汚穢なる豕児(ぶたのこ)(ルーテルの語)なり、露国宣教師に教化されし希臘(ギリシア)教徒は国賊なり、監督教会は英国が世界を略奪せんが為の機関にして、其信徒は黄白の為めに使役されるる探偵なり、長老教会は野心家の集合所なり、メソヂスト教会は不用人物の巣窟なり、クェーカー派は偽善の結晶体なり、ユニテリアン派は偶像教に勝る異端なりと。

若し某氏の宗教事業の盛なるを聞けば曰く、彼れ世人に諂(へつら)ふが故に彼の教会に聴衆多しと。某氏の学校の隆盛を聞けば曰く、彼れ高貴に媚ぶるが故に成功したりと。

然れども教会に捨てられてより余の眼は開き、余の推察の情は頓に増加せり。所信を異にしても人は善人たるを得べしとの大真理を余は此時に於て初て学び得たり。真理は余一人の有にあらずして、宇宙に存在する凡ての善人の有たることを知れり。

心の奥底より天主教徒たる人を余は想像し得るに至れり。良心の充分の許可を得てユニテリアンたり得ることを余は疑はざるに至れり。余は初めて世界に宗教の多き理由と、同一宗教内に宗派の多く存在する理由とを解せり。

真理は富士山の壮大なるが如く大なり。一方より其全体を見る能はざるなり。駿河より見る人は云ふ、富士山の形は斯くなりと。甲斐より見る人は云ふ、斯くなりと。相模より見る人は云ふ、斯くなりと。駿河の人は甲斐の人に向て、汝の富士は偽りの富士なりと云ふべけんや。若し自ら甲斐に行きて之を望めば、甲州人の言の無理ならざるを知るべし。

人間の力弱きこと真理の無限無窮なる事とを知る人は、思想の為めに他人を迫害せざるなり。全能の神のみ真理の全体を会得し得るものなり。他人を議する人は己を神と同一視するものにして、傲慢でふ悪魔の捕虜(とりこ)となりしものなり。

己れ人に施されんとする事を亦人にも其如く施せよ。余は無神論者にあらざれど余は無神論者と視られたり。余はユニテリアンならざるにユニテリアンとして遠ざけられたり。余を迫害せしものは、余の境遇と教育と遺伝とを知らざるが故に、余の思想を解する能はずして、余が彼等と同説を維持せざるが故に余を異端となし、悪人となせり。

余は今より後、余と説を異にする人を見るに然(し)かせざるべし。欧米人が日本人の思想を悉く解し能はざるが如く、日本人も亦欧米人の思想を全く解すること難かるべし。然り寛容は基督教の美徳なり。寛容ならざるものは基督信徒にあらざるなり。

教会に捨てられしものは余一人にあらざるなり。

会堂にありし者是れを聞きて天に憤り、起ちてイエスを邑(まち)の外に出し投下(なげおろ)さんとて、其邑の建ちたる崖にまで曳き往けり。 (ルカ伝四章廿八、廿九節)

キリストに依て眼を開かれしものも、教会より放逐せられたり。

彼等答へて曰ひけるは、爾は尽(ことごと)く罪孽(つみ)に生れし者なるに反つて我済(われら)を教ふるか。遂に彼を逐ひ出せり。彼等が逐ひ出ししことを聞き、イエス尋ねて之に遇ひ曰(い)ひけるは、爾神の子を信ずるか。答へて曰ひけるは、主よ彼として我が信ずべき者は誰なるや。イエス曰ひけるは、爾すでに彼を見る、今なんぢと言ふ者はそれなり。主よ我信ずといひて彼を拝せり。 (ヨハネ伝九章卅四ー卅八節)

ルーテルも放逐せられたり。ロージャ・ウィリアムスも放逐せられたり。リビングストンが直接伝道を止めて地理学探検に従事せしが故に、英国伝道会社の宣教師たるを辞せざるを得ざるに至りし如く、又かの支那に於ける米国宣教師クロセット氏が普通宣教師と異なる方法を採り、北京の窮民救助に従事せしに因て、終に本国よりの補給を絶たれ、支那海に於て貧困の中に下等船室内に於て死せしが如く、或は師父ダミエンが生命を抛(なげう)つてモロカイ島の癩病患者を救助し、死して後、彼の声明天下に轟きしや、米国の宣教師にして神学博士なる某が、一書を著して此殉教者生前の名誉を破毀せんとせしが如く、教会に捨てられ、信者に讒謗され、悪人視せらるる者は、決して余一人にあらざるなり。

世ににくまるるは われのみならず、
イエスは我よりも いたくせめらる。

然れども嗚呼神よ、直(ちよく)は全く余に存して曲(きよく)は悉く余を捨てし教会にありとは、余の断じて信ぜざる所なり。余に欠点の多きは爾のしろしめす如くにして、余の言行の不完全なるは余の充分に爾の前に白状する所なり。

故に余は余を捨てし教会を恨まざるなり。其内に仁人君子の存するありて、その爾の為に尽せし功績の決して鮮少ならざることは、余の充分に識認する所なり。其内に偽善、圧制、卑陋の多少横行するにもせよ、之れ爾の御名を奉ずる教会なれば我何ぞ之を敵視するに忍びんや。

余の心、余の祈祷は常に其上にあるなり。余はリベラル(寛大)なりと称する人が、自己の如くリベラルならざる人を目して迷信と呼び、狭隘と称して批難するを見たり。願くは神よ、余に真正のリベラルなる心を与へて、余を放逐せし教会に対しても寛容なるを得しめよ。

余は無教会となりたり。人の手にて造られし教会は、余を今や之を有するなし。余を慰むる讃美の声なし。余の為めに祝福を祈る牧師なし。然らば余は神を拝し神に近(ちかづ)く為の礼拝堂を有せざるか。

かの西山に登り、広原沃野を眼下に望み、俗界の上に立つこと千仞、独り無限と交通する時、軟風背後の松樹に讃歌を弾じ、頭上の鷲鷹(しうよう)両翼を伸ばして天上の祝福を垂るるあり。夕陽将に没せんとし、東山のむらさき、西雲のくれなゐ、共に流氷鏡面に映ずる時、独り堤上を歩みながら失せにし聖者と靈交を結ぶに際し、ベサイダの岩頭、サン・マルコの高壇、余に無声の説教を聴かしむるあり。激浪岸を打つて高く、砂礫白泡と共に往来する所、ベスホーレンの凱歌、ダンバーの砲声、共に余の勇気を鼓舞するあり。然り余は無教会にはあらざるなり。

然れども余も社交的の人間として、時には、人為の礼拝堂に集ひ衆と共に神を讃め共に祈るの快を欲せざるにあらず。教会の危険物たる余は、起ちて余の所感を述べ他を勧むるの自由なければ、余は窃かに座を会堂の一隅灯光暗き処に占め、心に衆と共に歌ひ、心に衆と共に祈らん。

異端の巨魁たる余は、公然高壇の上に起ち粛然福音を宣べ伝ふるの特権を有せざれば、余は鰥寡(くわんくわ)孤独憂へに沈むもの、或は貧困縷衣(るい)にして人目を憚るもの、或は罪に恥ぢて暗処に神の赦免(ゆるし)を求むるものの許に訪ひ、ナザレのイエスの貧と孤独と恩恵とを語らん。

嗚呼神よ、余は教会を去りても爾を去る能はざるなり。教会に捨てらるるは不幸は不幸なるべけれども爾に捨てられざれば足る。願くは教会に捨てられしの故を以て余をして爾を離れざらしめよ。