第4章 事業に失敗せし時

基督教は人を真面目になすものなり。青年之に由て已に老成人の思想あり。少女之に由て已に老媼の注意あり。そは基督教は人をして物の実を求めしめて、その影を軽んぜしむるものなればなり。小説の嗜読、芝居の見物は、変じて歴史の攻究、社会の観察となり、野望的の功名心は変じて沈着なる事実の計画となり、自己尊大の念は公益増進の志望と変じ、「如何にして此国と此神とに事へんか」との問題に就て、日も夜も沈思するに至る。

When I was yet child, no childish play

To me was pleasing;all my mind was set

Serius to learn and know,and thence to do

What might be public good; myself I thought

Born to that end

– Milton,Paradaise Regained.

人の事業心を喚起するものは基督教なり。事業と宗教とは自(おのづか)ら其性質を異にするものなりとの観念は、普通人間の抱懐する所なり。事業とは活溌なる運動を意味するものして、宗教とは静粛隠遁を意味するものなるが如し。余輩未だ曾て仏教の熱心家にして、教理のために大事業を企てし人あるを聞かず。釈氏の理想的の人物は、決して事業家にあらざりしなり。然れども基督教は世の事業を重んずるのみならず、之を信ずるものをして能く大事業家たるの聖望を起さしむ。

カーライルの所謂 peasant-saint(農聖人)、即ち手に鋤を取りながら心に宇宙の大真理を蓄ふる人、是れ基督教の理想的人物にして、キリスト亦彼自身も僻村ナザレの一小工なりしなり。

余も亦基督信徒となりしより、芝居も寄席も競馬も悉く旧来の味を失ひ、独り事業てふ念は頻(しきり)に胸中に勃興して殆ど禁ずる能はざるに至れり。

或は蘇(=スコットランド)のリビングストンを学び、彼が「利慾の為めに商人の通過し得る処、何ぞキリストの愛に励まさるる宣教師の通過し得ざる理あらんや」と云ひつつ阿弗利加大陸を横断せしに俲(なら)ひ、我も亦新宗教の感動の下に南洋又は北海無人の邦土を探求せんか。

或は独のシュワルツ(Christian FriedrichSchwartz)を学び、未開国の教導師となり、仁愛の基礎の上に其国是を定めんか。或は英のウィリアム・ペンを学び、荒蕪を開き蛮民を化し、純然たる君子国を深林広野の中に建立せんか。或は米のピーボデーを学び、貧より起りて百万の富を積み、孤を養ひ、寡を慰め、以て大慈善の功績を挙げんか。

言ふを休めよ、基督教に世の快楽なしと。此希望、此計画ーー嗚呼実に余は余の生涯の短きを歎ぜり。事業、事業、国のための事業、神のための事業ーー嗚呼世に快と称するものの中、何物か此快楽に優るものあらんや。

余は嘗て思へらく、自己のために富貴たらんことを祈るは罪なり、神は必ず斯くの如き祈祷を受け給はざるべし。名誉を得んがための祈祷も亦然り、然れども他を益せんがために祈ることは神の最も歓び給ふ所にして、かかる祈祷は必ず聴かれ、その事業は必ず成功するに至らんと。

依て万事を打捨てて余の神聖なる希望を充たさん事を努めたり。勿論基督信徒として、余は世に媚び高貴に諂(おもね)り以て余の目的を達すべきにあらず。余の頼むべきは神なり、正義なり。

或は車を頼み或は馬を頼みとする者あり、されど我等はわが神ヱホバの名をとなへん。(詩篇二十章七節)

此時は実に余に取り最も多望なる、最も愉快なる時なりき。余の前途に妨害なるものなく、余の心中に失敗なる文字の存するなし。余は宇宙の神を信じ万人の為に大事業を遂げんと欲す。成功必然なり。神在(いま)す間は余の事業の成功せざる理由あるなし。

見よ、世の事業家の失敗するは、自己のために計りて栄光の神を信ぜざるに由る。余は然らず。余の事業は公益のため、神のためなり。若し余にして失敗するならば神は存せざるなり、真理は誤謬なり。

然るに余の愛する読者よ、余は失敗せり。数年間の企画と祈祷とは画餅に帰せり。而して余の失敗より来りし害は余一人の身に止まらずして、余の庇保(ひほ)の下(もと)にある忠実なる妻、勤勉なる母の上にも来れり。

余は世間の嘲弄を蒙れり。友人は余の不注意を責め、余の敵は余の不幸を快とせり。悪霊此機に乗じ余に耳語(じご)して曰く、

『汝無智のものよ、方便は事業成功の秘訣なるを知らざるか。精神のみを以て事業を為し遂げ得べしと一途(いちづ)に思ひし稚(をさ)な心の憐れさよ。某大事業家を身よ、彼は学校を起すに方つて広く世の賛成を仰ぎ、少しは良心に恥づる所あるとも、数万の後進を益する事と思へば、意を曲げ膝を屈し以て莫大の資金を募(つの)り得しにあらずや。

『摂理は常に強大なる軍隊と共にありとのナポレオン第一世の語は、実に事業家の標語たるべきものなり。見よ、某牧師は常に正義公道の利益を説くと雖も、彼れ自ら会堂を新築し教理を伝播せんとするや、必ず世の方法を取るにあらずや。

『正義公道とは天使の国に於ては実際に行なはるべけれども、此人間世界に於ては多少の方略を混合するにあらざれば、決して行はるべきものにあらず。汝今日より少しく大人(おとな)らしくなれ。真理と云ひ愛国と云ふが如き事を重んずる勿れ。然らずは、汝自身失敗に失敗を重ぬるのみならず、罪なき汝の父母妻子も亦、汝と共に悲哀の中に一生を送らざるを得ず。

『且又汝の益せんとする公衆も、汝の方法を改むるにあらざれば汝より益を得る事なし。汝何ぞ国のため、汝の愛する妻子のために忍ばざる。神は汝より無理の要求を為さず。方略は今の世の必要物なり。方略と虚言とは自ら異る処あり。汝解せしや否や』と。

嗚呼誰か此巧みなる論鋒に敵するものあらんや。事実は確実なる結論なり。余は経験に依て正義公道の無効力なるを知れり。悪霊の説諭これ天よりの声ならずや。我等は経験に依てのみ事物の真相を知るを得るなり。

而して経験は余の希望に反せり。過而勿憚改(あやまつてあらたむるにはばかるなかれ)。何ぞ公平なる学者として、勇気ある男子として、今日までの迷信を脱し、国のために神のため少しく方略を利用して、前日の失敗を償はざる。

時に声あり内より聞ゆ。其調子の深遠なる、永遠より響き来るが如し。其威力ある、宇宙の主宰者の声なるが如し。余の全身を震動せしめて曰く『正義は正義なり』と。而して後粛然たり。

嗚呼如何にすべきや。誰か此声に抗するものあらんや。然らば斃(たふ)るるとも正義を守れとの謂か。嗚呼余は悟れり余の神よ、正義は事業より大なるものなり。否、正義は大事業にして、正義を守るに勝さる大事業あるなし。

人生の目的は事業にあらざるなり。事業は正義に達するの途にして、正義は事業の侍女(こそもと)(handmaid)にあらざるなり。教会も学校も政治も殖産も、正義を学び之に達する為めの道具なり。現世に於ける事業の目的は事業其者の為めにあらずして、之に従事するものの之に由りて得る経験、鍛錬、堪忍、愛心にあるなり。

基督教は事業よりも精神を貴ぶものなり。そは精神は死後永遠まで存するものにして、事業は現世と共に消滅するものなればなり。支那宣教師某四十年間伝道に従事して一人の信徒を得ず、然れども喜悦以て世を逝(さ)れり。彼は得し処なかりしや。

否。師父ザビエーは東洋に於て百万人以上に洗礼を施したりと雖も、恐くは現世より得し真結果に至つては此無名の一宣教師に及ばざりしならん。嗚呼事業よ、事業よ、幾許の偽善と、卑劣手段と、嫉妬と、争闘とは汝の名に依(より)て惹起(ひきおこ)されしよ。

嗚呼然るか。然らば余の失敗せしは必しも余の罪にあらず。亦神の余を見捨て給ひし証拠にもあらず。亦余の奮励、余の祈祷の無益なるを示す者にも非ざるなり。

然り、若し正義が事業の目的ならば、正義を発表するに於て、正義を維持するに於て最も力ありし事業こそ、最も成功せし事業なれ。基督教の主義より云へば正義是れ成功と云ふ。正義を守る、是れ成功せしなり。正義より戻る、又正義より脱する(仮令少しなりとも)、之を失敗と云ふ。

大廈(たいか)空に聳えて高く、千百の青年其内に集りて隆盛を極むるの学校事業、必しも成功せし事業にあらざるなり。其資金の性質、其設立者の精神は、其成功不成功の標準なり。

仁政之れを成功せる政治と云ふ。所謂政治家の術を学び、是と和し彼と戦ひ、是に媚び彼と絶つが如きは、如何に外面上の国威を装ふにもせよ、これ失敗せる政治なり。

義人は信仰に依りて生くべし。兵器軍艦増加せし故に成功せりと信ずる政治家、教場美にして生徒多きが故に成功せりと信ずる教育家、宏壮なる教会の建築竣(を)へしを以て成功せりと信ずる牧師、帳面上洗礼を受けしものの増加せしを以て伝道事業の成功せしと信ずる宣教師──是等は皆肉眼を以て歩むものにして、信仰に依て生くるものにあらざるなり。

彼等は玩弄物を玩(もてあそ)ぶ小児なり、木石を拝する偶像信者なり、黄金の堆積を楽む守銭奴なり、而して基督信者にはあらざるなり。聖アウガスチン曰く「大人の遊戯之を事業と云ふ」と。嗚呼余も亦余の事業を見ること小児の玩弄物を見るが如くなりき。余は是に於て、初てキリストの野の試誘(こころみ)の註解を得たり。馬太伝四章に曰く、

さてイエス聖霊により導かれ悪魔に試みられん為に野に往けり。四十日四十夜食ふことをせず後うゑたり。試むるもの彼に来たりて曰ひけるは、爾もし神の子ならば命じて此石をパンと為よ。

イエス答へけるは、人はパンのみにて生くるものにあらず唯神の口より出づる凡(すべて)の言(ことば)に因ると録(しる)されたり。是に於て悪魔彼を聖(きよ)き京(みやこ)に携へゆき殿(みや)の頂上(いただき)に立たせて曰ひけるは、爾もし神の子ならば己が身を下へ投げよ、蓋(そは)なんぢが為に神その使等(つかひたち)に命ぜん、彼等手にて支へ爾が足の石に触れざるやうすべしと録(しる)されたり。

イエス彼に曰ひけるは、主たる爾の神を試むべからずと亦録(しる) せり。悪魔また彼を最(いと)高き山に携へゆき、世界の諸国と、その栄華とを見せて、爾もし俯伏(ひれふ) して我を拝せば、此等を悉くなんぢに与ふべしと曰ふ。

イエス彼に曰ひけるは、サタンよ退け、主たる爾の神を拝しただ之にのみ事(つか)ふべしと録(しる)されたり。終に悪魔かれを離れ、天使たち来り事ふ。

(一節ー十一節)

キリストすでに齢(とし)三十に達し、内に省み外に学び、終(つひ)に世の大救主たるを自覚するに至れり。彼の再従兄(またいとこ)バプテスマのヨハネも亦彼に此天職あるを認め、神の小羊として彼を公衆に紹介せり。天の父も亦彼の自覚とヨハネの所信とを確かめん為めに、聖霊を鳩の如く降(くだ)して彼の上にやどらせたり。

然れども如何にして此世を救はんか、是れキリストを野に往かしめし問題なりき。(馬可(マルコ)伝一章十二節「往かしめし」は英語の driveth 希臘語の ek-ballei「強ひて逐ひやる」の意なり)。

彼れ餓ゑたり。而して後、世界億千万の民の食足らずして饑餓に苦しむを推察せり。キリスト思へらく『我は慈善家となりて貧民を救はん。我に土石を変じてパンとなすの力あり。億万の空腹立所(たちどころ)に充たし得べし』と。

然(さ)れども聖霊彼に告げて曰く『饑餓を救ふは一時の慈善なり。爾の救世事業は永遠にまで達すべきものなれば、億万斤のパンと雖も決して之を為し得べきに在らず。神の口より出づる凡ての言(ことば)こそ真正のパンなれ。爾の天職は世の所謂慈善事業にあらざるなり』と。

慈善家たるの念を断ち、彼一日聖殿(みや)の頂上(いただき)に登り、眼下に万人の群集するを見し時、悪霊再び彼に耳語して曰く『爾は爾の思想を是等の民に伝へんと欲す。然れども爾はナザレの一平民にして、誰も爾の才能と真価値とを知るものなし。故に爾先づ己が身を下に投げよ。さらば衆人爾の技倆に驚き、爾に注目するに至らん。民の名望一たび爾に集らば彼等を感化すること掌(たなごころ)を反すよりも易し』と。

然れども天よりの声は曰く『真理は虚喝(きよかつ)手段を以て伝へ得べきものにあらず。民の名声に頼つて彼等を教化せんとす、是れ神を試み己を欺くなり。方便は救世術としては全く無価値なり』と。

キリストは慈善家たらざるべし。彼は方便を使用し民の耳目を驚かして世を救はざるべし。然れども彼れ一日高き山に登り、眼下に都府村落の散布せるを見、国土を神の楽園と為し得べきを思ひしや、彼の胸中に浮びし救世の大方策は、彼れ大政治家となりて社会改良を遂げんとするにありき。

彼れ思へらく、我に世界を統御するの才能あり、我れ一挙して羅馬人を放逐し、神の特殊の選択にかかる猶太民族を率ゐ、世界を化して一大共和国となし、仁を施し民を撫育し、以て真正の地上の天国を建立せんと。

然るに彼の良心は此高尚なる希望をも彼に許さざりき。社会改良事業は正義堂々、主義一歩も譲らざるものの為し遂げ得べきものにあらず。必ず彼に伏し是を拝し、円転滑脱の政策を取らざるを得ず。

然り我は主義にのみ頼り救世の事業を実行せんのみ。サタンよ退け、汝の巧言を以て我を擾(みだ)す勿れ。我は目前の救助は為し得ずとも、我は国人の知る所とならずして幽陰の中に世を終るとも、我の事業は事物の上に現はれずとも、我は我の神を拝しただ之にのみ事へんと。

キリストの決心茲に於て定まり、生涯の行路彼に指示せられたれば、悪魔は彼を説伏するに由なくして、終に彼を去り、天使来りて彼に事へたり。

キリストの方向ここに定まりて、彼の生涯は実にこの決定の如くなりき。彼は衆人の饑餓を充たし得ざりしのみならず、彼の死せんとするや、彼の母をさへ其弟子に依託せざるを得ざるに至れり。

天下の名望は一として彼に帰するなく、彼は悪人として、神を瀆(けが)すものとして、刑罰に処せられたり。彼は一の教会、一の学校を建つることなく、事業として見るべきものは僅に十二三人の弟子養成のみなりき。

然れども此人こそ世界の救主にして、神の独子、人類の王にあらずや。実に然り、霊魂を有する人類には事業に勝る事業あるなり。世の事業を以て汲々たる信者は、宜しく事業上に於けるキリストの失敗に注目せざるべからず。

若しキリストにして慈善家たりしならば如何。ジョージ・ピーボデー(George Peabody)に勝り、スチーブン・ジラード(Stephen Girard)に勝り、百千万の貧民孤児は彼の救助に与りしならん。

然れども、彼が曾て「ヤコブの井戸の清水を飲むものはまた渇かん」とサマリヤの婦人に教へしが如く、彼が曾て五千人を一時に養ひし時多くの人はパンを得んがために彼の跡に附き従ひしが如く、永遠かわくことなき水、永遠餓うることなきパンを彼は此世に与へ得ざりしならん。世には貧民に衣食を給するに勝る大慈善あり。エマソン曰く、

人もし我に衣食を給するも、我は何時か之に対して充分なる報(むくい)を為さざるべからず(直接間接に)。我れ受けて後之に依て富まず、亦貧ならず。唯知識上並に道徳上の補助のみ万全の利益なり。

加之(しかのみならず)、若しキリストにして慈善家たりしならば、彼の慈善は彼一代に止(とど)まつて万世に至らざりしならん。

見ずや彼の愛に励まされて、幾多の慈善家が彼の信徒の中に起りしを。ジョン・ハワード、サラ・マーチン、エリザベス・フライ等の監獄改良事業は、全く彼等のキリストに対する報恩心より発せしものにあらずや。ウィリアム・ウィルバフォース(WilliamWilberforce)並にシャフツベリー侯の慈善事業も亦然り。著者曾て米国に在りて、基督教国に於ける慈善事業の盛なる、実に東洋仏教国に於て予想だもする能はざる所なるを見たり。

救霊上善行に価値を置かずして、善行を励ますに最も力ありしものは基督教なり。比較上現世は殆ど顧みるに足らざるものと見做して、現世を救ひ之れを進歩せしめしに於て最も功ありしものは基督教なり。キリスト若し慈善家たりしならば、彼の慈善事業は知るべきのみ。

キリスト若し名望方便を利用して民を教化せしならば如何。基督教は永遠まで人霊を救ふの潜勢力を有する宗教たり得ずして、仏教の今日あるが如く早く既に衰退時代に入りしならん。方便必ずしも明白なる虚偽にはあらず。然れどもキリストの「否な否な、然り然り」の大教理は、方便てふものの効用を全く否定したり。

基督信者にして名望家に依て教理を伝へんとするもの、学識爵位を以て下民の尊敬を基督教に索(つな)がんとするもの、会堂の壮大を以て信徒を増加せんとするものは、皆キリストの第二の誘惑に陥りしものにして、方便を利用する浅薄なる仏教信徒と大差あるなし。

キリスト方便を斥(しりぞ)けて彼の信者たるものに真率と正直の真価値を示せり。然るに彼の信者にしてその事業の速成を願ひ、塔の頂上より身を投ずる愚と不敬とを学ぶものあるは、実に歎ずべきにあらずや。

キリスト若し大政治家たりしならば如何。彼はシーザアに勝りシャーレマンに勝り、時の羅馬帝国を統一し、奴隷を廃し、税則を定め、堯舜の世、アウガスタスの黄金時代に勝る楽園国を地上に建てしならん。然れどもこれ此世に於ては、彼の「否な否な、然り然り」の直道を以て実行し得べきものにあらず。

かのピートル大帝は巨人なり、然れども誰か彼を以て君子仁人となすものあらんや。フレデリック大王も亦絶世の建国者なり、然れども誰か彼を以て人類の模範として仰ぐものあらんや。キリストは万世に至るまで此世を救ふべきものなれば、彼は政治家たるべからざりしなり。

想ひ見る、十八世紀の終に方つて仏蘭西に内乱の起るや、王室は人民の多数と共に天主教を奉じ、加ふるにギース家の挙(こぞ)つて之を賛助するあるを以て、新教徒則ちヒューゲノー党の苦戦止む時なく、前者に富と権力あり、後者に精神と熱心あり、此時に方つてヒューゲノー党の依て以て頼みとせし唯一の人物は、ナバールの大公ヘンリーなりき。

彼れ年若くして武勇に富み、而も仏王ルイ九世の正胤にして、王位を践むべき充分の權利と資格とを有せり。然れども彼れプロテスタント教徒たるが故に此栄位に達するを得ず、僅かに微弱なる反対党の大将となり、屢々忠実なる彼の小軍隊を以て敵の大軍を苦しめたり。

彼は彼の党を愛し、彼れ亦彼の党に愛せられたり。然るに一日彼れ心中に思へらく『我れ此党を率ゐて全国に抗し、戦乱止む時なく、国民塗炭に苦しむ茲に十数年。我の忠実なる兵卒にして、我の為めに屍(かばね)を戦場に曝せしもの其幾千なるを知らず。我れ何ぞ永く此悲劇を見るに忍びんや。我若し一歩を譲らば、我の血統、我の名望、必ず我をして仏国を統一せしむるに至らん。其時こそ我はヒューゲノー党に信仰の自由を与へ、旧新両教徒を和合せしめ、仏国をして富強幸福なる国となし得べし。我何ぞ我国のため、我忠愛なる士卒のために忍ばざらんや』と。歴史家は言ふ、仏国百年の計は実にヘンリーのこの決断にかかれりと。

嗚呼かれは此誘惑に打負けたり。彼は仏国のため士卒のために一歩を譲り、天主教徒の請求を容れ、ヒューゲノー党を脱し、羅馬法王に対して罪の懺悔を為し、終に仏王として承認せられるに至れり。

彼の退譲は彼の胸算に違はざる結果を生じ、彼の王位は鞏固となり、国内平穏に帰し民皆堵(と)を安ぜり。彼は忠実なるヒューゲノー党を忘れず、ナントの布令(Edict of Nantes)に依りて信仰自由を天下に令し、新教徒をして政治上殆ど旧教徒と異なる処なからしめたり。

彼の治世は仏国の中興として見るべきものなり。殖産事業の進歩、財政の整頓、外国に対する勢威、共にヘンリー王の事蹟として文明諸国の賞讃する処となれり。然れども彼の仏国のために尽せしは惟一時の治安策なりき。

かれ死するや、リシェリヤ、マザリンの下に仏国は威光を欧洲に耀かせしも、これ皆外貌の虚飾にして、内には止(とど)むべからざる腐敗を醸しつつありしを如何。ルイ十四世に至つては、此虚飾と頽勢其極に達し、ルイ十五世は黄金珠玉に包まれながら、淫縦汚穢の世に終れり。而してルイ十六世の代に至りては遂に仏国革命起り、其慘憺たる光景は人の皆知る所なり。

ヘンリーは一時を救はんとして毒を千載に流せり。嗚呼若し彼にしてキリストの如く悪魔の巧言を斥けしならば、仏国二百年の争闘流血を避け得しものを。ヘンリーは仏国を愛して之を愛せざりしなり。

仏の大王ヘンリーに対して、英の無冠王クロムウェルあり。彼も亦権力が精神と相争ふのときに生れ、身を民権自由に委ね、英国民の全世界に対する天職を認め、十七世紀の初めに方つてキリストの王国を地上に来らせんとの大理想を実行せんとせり。

百難起りて彼の進路を妨ぐと雖も、かれの確信は毫も動くことなく、終に不充分ながら、英国を化して公義と平等とに基(もとゐ)する共和国となすに至れり。

然れども英国民は未だ悉く彼れ無冠王の大理想を有せず、彼の心霊的の政治は肉慾的の普通社会を歓ばさず、反対終に四方に起り、彼はただ独り白殿(ホワイトホール)に天の父のみを友とするに至れり。

然れども彼の理想と信仰とは確乎として動かず、彼は彼の事業の永続すべからざるを知ると雖も、尚ほ彼の最初の理想に向つて進み、内乱再起の徴あるをも顧みず、勝算全く絶えしにも関せず、終生主義を貫徹して死せり。

彼が世を去るや彼の政府は直に転覆され、彼の屍は発(あば)かれ、彼の名は賤しめられ、彼の事業は一つとして跡を留めざるが如きに至れり。世はチャーレス第二世の柔弱、淫縦、腐敗の世となり、バトラル、ドライデン、クラレンドンの如き狐狸の輩寵遇を受け、人にハムプデンもベーンも無冠王も曾て地上の空気を呼吸せし事なきやの感を起こさしめたり。

小人は皆云へり、清党(ピユリタン)の事業は全く失敗せりと。然れども無冠王死して三十年、彼の石碑に未だ青苔(せいたい)だも生ぜざる時に、スチュアート家は全く跡を絶つに至り、爾来真理と自由とが地球回転の度数と共に増進するや、無冠王の理想は徐々に実成されつつあり。

クロムウェルありしが故に、英国は十八世紀の革命なかりしなり。仏王ヘンリーの退譲は仏国民一百年間の堕落と流血とを招き、クロムウェルありしが故に英国民は他欧洲国民に先だつ百年、既に健全なる憲法的自由を有せり。クロムウェルは実に英国を愛せし人なり。

楠正成の湊川に於ける戦死は、決して権助(ごんすけ)の縊死にあらざりしなり(福沢先生明治初年頃の批評=『学問のすすめ』忠君の死と手代の死を同一視した)。

南朝は彼の戦死に由て再び起つ能はざるに至れり。彼の事業は失敗せり。然れども彼れ死して後五百歳、徳川時代の末期に至て、蒲生君平、高山彦九郎の輩をして皇室の衰頽を歎ぜしめ勤王の大義を天下に唱へしめしに於て、最も力ありしものは忠臣楠氏の事蹟にあらずして何ぞや。

ボヘミヤのフッス将に焼殺されんとするや、大声叫んで曰く「我れ死する後千百のフッス起らん」と。一楠氏死して明治の維新に百千の楠公起れり。楠公は実に七度人間に生れて国賊を滅せり。楠公は失敗せざりしなり。

キリストの十字架上の恥辱は、実に永遠にまで亙る基督教勝利の原動力なり。キリストの失敗は実に基督教の成功なりしなり。

然らば余も失敗せしとて何ぞ落胆すべき。何ぞ失敗せしを感謝せざる。義の為めに失敗せしものは、義の王国の土台石となりしものなり。これ後進者成功の為めに貯へられたる潜勢力なり。

我等は後世の為めに善力(Power for Good)を貯蓄しつつあるなり。余は先祖の功に依り安逸放肆に歩む貴族とならんよりは、功を子孫に遺す殉義者とならんことを欲す。

然らば余は余の事業に失敗せしにより絶望家となり、事業家たるの念を断ちしや。

否然らざるなり。余は今は真正の事業家となりしなり。事業とは形体的のものなりとの迷信全く排除せられてより、余は動かすべからざる土台の上に余の事業を建設し始めたり。余の事業の敗られしは、敗るべからざる事業に余の着手せんが為めなり。(ヘブル書十二章廿七節)

事業は精神の花なり、果なり。精神より自然に発生せざる事業は、事業にして事業にあらざるなり。汝等まづ神の国と其義とを求めよ、然らば事業も亦自然に汝等より出で来るべし。