第5章 貧に迫りし時

四百四病のその中に貧ほどつらきものはなし。心は花であらばあれ、深山(みやま)がくれのやつれ衣(ぎ)に誰か思を起こすべき。人間万事金の世の中。金は力なり、権力なり。金のみは我等に市民権を与ふ。金なければ学も徳も、人を一市民となすを得ず。此開明を以て称せらるる十九世紀に於ても亦、金なき人は人にして人にあらざるなり。

我が栄えし時に友人ありしも、我れ貧に迫りてより我は友なきに至れり。我れ窮せざりし時に我に信用ありしも、我が財嚢(ざいのう)の空しくなると同時に我が言は信ぜられざるに至れり。われ友を訪ふも彼れ我を見るを好まず、我れ彼に援助(たすけ)を乞へば嫌悪を以て我に対(こた)ふ。我と共に祈りしもの、我と共に神と国とに事へんと誓ひしもの、我を兄弟と呼びしもの、今は我の貧なるが故に我とは別世界の人となれり。

落ぶれて袖になみだのかかる時

人のこころの奥ぞしらるる

汝貧に迫るまで友を信ずる勿れ。世の友人は我等の影の如し。彼等は我等が日光に歩む間は我等と共なれども、暗所に至れば我等を離るるものなり。貧より来たる苦痛の中に、世の友人に冷遇さるる是れ悲歎の第一とす。

我の貧、我れ独り之を忍ぶを得ん。然れども我に依て衣食する我の母、我の妻も、我が貧なるが故に貧を感ぜり。我は我と境遇を同うせる古人の伝を読み以て我が貧を慰め得と雖も、彼等は如何にして此鬱を散ずるを得べしや。貧より来る苦痛の中に、我父母妻子の貧困を見る是れ悲歎の第二とす。

我は食を求めざるべからず。彼処(かしこ)に到り此處(ここ)を訪(と)ひ、業にあり就かんと欲する時、我貧なるが故に彼より要求さるる条件多くして、我の受くべき報酬は少く、我は売人(うりて)にして彼は買人(かひて)なれば値段を定むる権は全く彼にあり。我不平を唱へて彼の要求を拒めば、我は唯我が父母妻子と共に餓死するのみ。若し餓死する者は我一人ならば、我は我が意を張りて我が膝を屈せざるものを。

然れども今の我は我一人の我にあらず、我を生みしものの為め、我に淑徳を立つるものの為め、我は我の尊敬せざる人にも服従せざる得ず。貧より来る苦痛の中に、食の為めに他人に腰をかがめざるを得ざる是れ悲歎の第三なり。

富足りて徳足るとは、真理には非ずとするとも確実なる経験なり。奢侈は勿論不徳なり。我れ富みたればとて驕らざるべし。然れども滋養ある食物、清潔なる衣服は、自尊の精神を維持する上に於て少なからざる力を有すものなり。

我の最も嫌悪する卑陋(ひろう)なる思想は、貧と共に我が胸中を襲ひ、我をして外部の敵と戦ふと同時に内患に備ふるが為めに常に多端ならしむ。貧より来る苦痛の中に、心に卑陋なる思想の湧出する是れ悲歎の第四なり。

貧は我をして他人を羨(うらや)ましめ、我を卑屈ならしむると同時に、又我を無愛想なる者(misanthropist)となすものなり。我は集会の場所を忌み、我は交際を避けんと欲す。我が心は益々冷薄頑固となり、靄然(あいぜん)たる君子の風、温雅なる淑女の様は我れ得んと欲して得る能はず。貧は我を社会より放逐(はうちく)するものなり。貧より来る苦痛の中に、寂寞(せきばく)孤独の念を生ずる是れ悲歎の第五なり。

貧は貧を生ずるものなり。持つものには加へられ、持たざるものは既に持つものをも取去る。俗に所謂貧すれば鈍するとの言は、心理学上の事実にして亦経済学上の原理なり。富者益々富めば貧者は愈々(いよいよ)貧なり。貧より来る苦痛の中に、この絶望に沈む、この無限の堕落を感ずる是れ悲歎の第六なり。

嗚呼われ如何にしてこの内外の攻撃に当らんか。貧は此身に附くものなれば、此身を殺さば貧は絶ゆるなるべし。自殺は羅馬の賢人カトー、シセロ等の許せし所、貧てふ無限の苦痛より遁(のが)れんが為めには自殺は唯一の方法ならずや。”He that dieth payeth all hisdebts”(死者は悉く負債を返還す)。我の社会に負ふ処、我の他人に負ふ所、我に之を返却し得るの見込みなし。我は死してのみ能く此負債より脱するを得るにあらずや。

言ふを休めよ、汝美食美服に飽く者よ、かの一円に満たざる借銭のために、身を水中に投ぜし小婦は痴愚にして発狂せしなりと。彼女は世に己の貧を訴ふるの無益なるを知り、その純白なる小さき心は他人に義理を欠くに忍びずして、彼女は終に茲に至りしなり。

In she plunged boldly,

No matter how coldly

The rough river ran–

Picture it – think of it,

Dissolute Man!

–Thomas Hood.

然り、若し宇宙の大真理として、自殺は神に対し己れに対しての大罪なりとの教訓の存せざりしならば、貧の病を療治するために我も亦この手段を取りしものを。

されども嗚呼我神よ、爾の恵は我れ死せずして我を此苦痛より免れ得しむ。爾に依てのみ貧者も自尊心を維持し得べく、卑陋ならずして高尚なるを得るなり。

基督教は貧者を慰むるに、仏教の所謂「万物皆空」なる魔睡的の教義を以てするものに非ず。基督教は世をあきらめしめずして世に勝たするものなり。富めると貧なるとは前世の定(さだめ)にあらずして、今世に於ける個人的の境遇なり。貧は身体の疾病と同じく、之を治する能はずんば喜んで忍ぶべきものなり。

我れの貧なる、若し我の怠惰放蕩より出でしものならば、我は今より勤勉節倹を事とし浪費せし富を回復すべきなり。天は自ら助くるものを助く。如何なる放蕩児と雖も、如何なる惰(なま)け者と雖も、一度飜(ひるがへ)りて宇宙の大動に従ひ、手足を労し額(ひたひ)に汗せば、天は彼をも見捨てざるなり。

貧は運命にあらざれば、我等手を束(つか)ねて之に甘んずべきにあらず。働けよ、働けよ。正直なる仕事は如何に下等なる仕事なりと雖も、決して之を軽んずる勿れ。何をも為さざるは罪を為しつつあるなり(Doing nothing is doing ill)。

人を欺き人を殺すのみが罪にあらざるなり。懶惰(らんだ)も亦罪なり。時を殺すも罪なり。富は祈祷のみに依て来らず。働くは祈るなり(Laborare est orare)。身と心とを神に任せて熱心に働きて見よ。神も宇宙も汝を助け、汝の労力は実るべし。

然れども世には正義の為めの貧なるものなきにあらず。ロバート・サウジー曰く「一人の邪魔者の常に我身に附き纏(まと)ふあり、其名を称して正直と云ふ」と。永久の富は正直に由らざるべからずと雖も、正直は富に導くの捷径にはあらず。

世に清貧なる者のあることは、疑ふべからざる事実なり。或は良心の命を重んじ世俗に従はざるが故に、時の社会より放逐せらるるあり。或は直言直行我の傭主(やとひぬし)を怒らし、我の業を奪ひ取らるるあり。或は我思想の此世の思想と齟齬(そご)するが故に、我に衣食を得るの途塞(ふさ)がるあり。

或は貧家に生れて貧なるあり。或は不時の商業上の失敗に遭ひ、或は天災に罹りて貧に陥るあり。即ち自己以外に原因する貧ありて、黽勉(びんべん=精励)も注意も以て之を取り去る能はざるの場合あり。

斯くの如くにして貧の我身に迫るあらば、我は勇気と信仰とを以て之を忍ばんのみ。而して基督教は此忍耐を我れに与ふるに於て、無上の力を有するものなり。

一、汝貧する時に先づ世に貧者の多きを思ふべし。日本国民四千万人中、壱ヶ年三百円以上の収入ある者は僅に十三万人に過ぎず。即ち戸数百毎に、壱ヶ月二十五万円以上の収入ある家は僅に一戸半を数ふ。百軒の中九十八軒は、壱ヶ月二十五万円以下の収入あるのみ。

而して来年の計を為し貯蓄を有するもの幾許かある。来月に備ふる貯蓄を有せざる家何ぞ多きや。人類の過半数は軒端(のきば)に餌を求むる雀の如く、山野に食を探る熊の如く、今日は今日を以て足れりとなし、今日得しものは今日消費し、明日は明日に任せ、日に日に世渡りするものなり。

汝の運命は人類大多数の運命なり。肥馬(ひば)に跨(またが)る貴公子を以て普通人間と思ふ勿れ。彼一人安閑として世を渡り、綺羅を飾り、美味に飽かん為めには、数千の貧者は汗を流して労働しつつあるなり。

貧は常にして富は稀なり。汝は普通の人にして彼貴公子は例外の人なり。一人にして忍び能はざるの困難も、万人共に之を忍べば忍び易し。汝は人類の大多数と共に饑餓を感じつつあるなり。

二、古代の英雄にして、智に於ても徳に於ても遥かに汝に勝さりしものが、汝の貧に勝さる貧苦を受けし事を思へ。哲学上、神学上、信仰上、功績上、人類の首(かしら)と承認せらるる使徒パウロ、四十年間無私の労働の後に彼の所有に属せしものとては、外衣一枚と古書数巻とのみなりしを思へ(テモテ後書四章十三節)。

古哲ソクラテスが日に二斤のパンと、雅典城の背後に湧出する清水とを以て満足したりしを思へ。「之を文天祥の土窖(どかう)に比すれば我が舎は即ち玉堂金屋なり。塵垢(ぢんこう)の爪に盈(み)つる、蟻虱(ぎしつ)の膚を侵すも、未だ我正気(せいき)に敵するに足らず」と勇みつつ、幽廬(いうろ)の中に沈吟せし藤田東湖を思へ。

「道義胆(きも)を貫き、忠義骨髄に填(み)ち、直に須(すべから)く死生の間に談笑すべし」と、悠然として饑餓に対せし蘇軾を思へ。ヱレミヤを思へ。ダニエルを思へ。和漢洋の歴史何れなりとも汝の意に任せて渉猟し見よ。貧苦に於ける汝の友人は多きこと蒼天の星の如し。

三、イエスキリストの貧を思へ。彼は貧家に生れ、口碑の伝ふる所に由れば十八歳にして父の一家を支へしとなり。「狐は穴あり、空の鳥は巣あり、されど人の子の枕する処だもなし」とはキリスト地上の生涯なりき。

僕(しもべ)はその主人に優る能はず。汝の貧困キリストの貧困にまさるや。彼は貧者の友なりき。「貧しきものは福(さいはひ)なり」(ルカ伝六章十二節)との言は彼の口より出でしものなり。貧ならざればキリストを悟り難し。

四、富必しも富ならざるを知れ。富とは心の満足を云ふなり。百万円の慾を有する人には五拾万円の富は貧なり。拾円の慾を有する人には弐拾円は富なり。富に二途あり。富を増すにあり。慾を減ずるにあり。汝今は富を増す能はず、然らば汝の慾を減ぜよ。

カーライル謂へるあり、曰く「単数も零にて除すれば無限なり(1/0=∞)、故に汝の慾心を引下げて世界の王となれ」と。余は五拾万弗(ドル)の富を有する貴婦人が、貧を懼(おそ)れて縊死せるを聞けり。金満家の内幕は決して平和と喜悦とに充つるものに非ず。神の子の如き義侠、天使の如き淑徳は、寧ろ貧家に多くして富家に尠(すくな)し。

我等は貧にして巨人たるを得るなり。神が汝に与へし貧てふ好機会を利用して、汝の徳を高め、汝の家を清めよ。愉快なるホームを造るに風琴の備附、下男下婢の雇入を要せず。若し富を得るの目的は快楽にありとならば、快楽は富なしにも得らるるなり。”My mind to me a kingdomis”(心ぞ我の王国なれ)。我は貧にして富むことを得るなり。

五、汝今衣食を得るに困(くるし)む。然らば汝も空の鳥、野の百合花の如くなりて、汝の運命を天に任せよ。

 この故に我なんぢらに告げん、生命(いのち)の為めに何を食ひ何を飲み、また身体の為めに何を衣(き)んと憂慮(おもひわづら)ふこと勿れ。生命は糧(かて)より優り身体は衣(ころも)よりも優れるものならずや。なんぢら天空(そら)の鳥を見よ、稼(まく)ことなく穡(かる)ことを為さず倉に蓄ふることなし。然るに爾曹(なんぢら)の天の父は之を養ひ給へり。爾曹之れよりも大いに勝(すぐ)るるものならずや。

 爾曹のうち誰か能くおもひ煩(わづら)ひて其の生命を寸陰も延べ得んや。また何故に衣のことを思ひわづらふや。野の百合花(ゆり)は如何にして長(そだ)つかを思へ、労(つと)めず紡(つむ)がざるなり。われ爾曹に告げん、ソロモンの栄華の極の時だにも其の裝(よそほ)ひこの花の一に及ばざりき。神は今日野にありて明日炉に投げ入れらるる草をも、如比(かく)よそはせ給へば、況(まし)て爾曹をや。

 嗚呼信仰うすきものよ。さらば何を食ひ何を飲み、何を衣(き)んとおもひわづらふ勿れ。之れみな異邦人の求むるものなり。爾曹の天の父は凡てこれ等のものの必需(なくてならぬ)ことを知りたまへり。爾曹先づ神の国と其義(ただしき)とを求めよ、さらば此等のもの皆はなんぢらに加へらるべし。是故に明日のことを憂慮(おもひわづら)ふなかれ。明日は明日の事を思ひわづらへ。一日の苦労は一日にて足れり。(マタイ伝六章廿五ー卅四節)

或仏教家此章句を評して曰く、基督教は人を怠惰ならしむるものなりと。然り基督教は多くの仏教徒の今日為すが如く、済世(さいせい=人民救済)を怠りつつ自己の蓄財に汲々たるを奨励せざるなり。基督教は雀の朝より夕迄忙しきが如くに人をして働かしむるものなり。基督教は富の為めに人の思慮するを許さず。

勿論世に称する基督信徒必しも皆、空の鳥、野の百合花の如くにあらず。或者は蟻の如く取つても取つても溜めつつあり。或者は狐の如く取りしものは皆隠し置き、何時用ふるとも知らず、唯取るを以て快楽となしつつあり。然れども是れ基督教の本旨にあらざるなり。汝若し玻璃(はり)温屋の内にナザレのイエスの弟子ありと聞くとも、汝の心を傷ましむる勿れ。

哲学者カント云へるあり、曰く「宇宙の法則を以て汝の言行とせよ」と。空の鳥、野の百合花は、此法則に従ひ居ればこそ何を食ひ何を飲み何を衣んとて思ひ煩はざるなれ。

社会は生存競争のみを以て維持するものにあらざるなり。人は食ふ為めにのみ此世に来りしにあらざるなり。此地球は神の工場なれば、働くものに衣食あるは当然なり。工場の職人は、衣食の事のみを思ひ煩ひてはその職を尽し得ざるなり。我も亦此宇宙に生を有し、宇宙の一小部分なれば、我若し天与の位置を守らば宇宙は必ず我を養ふべし。エマソン曰く、

If the single man plant himself indomitably on his instincts,and there abide,the huge world will come round to him.                            –The American Scholor.

人若しその本能の示すところに拠り、其上に屹立(きつりつ)せば、大世界は来りて彼を補翼(ほよく)すべし。

衣食のために思考の殆ど全部を消費する十九世紀の社会も人も、決してキリストの理想にあらざるなり。

六、故に汝餓死の怖れを抱く勿れ。餓死の恐怖は人生の快楽の大部分を消滅しつつあるなり。ナポレオン大帝言へるあり「食ひ過ぎて死する者は食ひ足らずして死するものよりも多し」と。人口稠密(ちうみつ)なる我国に於てすら、餓死するものとては実に寥々(れうれう)たるにあらずや。

天の人を恵む実に大なり。毎年八百万石余の米穀は有害無益なる酒類に変化せらるるに関せず、労力の大部分は宴会とやら装飾とやら遊戯的の事物に消費せらるるに関せず、我等の食糧は尚ほ足り過ぎて毎年夥多(くわた)の胃病患者を出すにあらずや。

世に最も稀なるものは餓死なり。明治廿二年の統計表に依れば、全国に於て途上発病又は饑餓にて死せしものは僅々(きんきん)千四百七十二人なりき(消化器病にて死せしものは二十万五千余人なり)。汝真理の神を拝しその命令に従はんと努むるものが、争(いか)でか餓死し得べけんや。ダビデ歌うて曰く、

我れむかし年わかくて今老いたれど、義者のすてられ或はその裔(すゑ)の糧(かて)乞ひあるくを見しことなし。 (詩篇三十七篇二十五節)

と。余は善人の貧するを聞けり、然れども未だ神を畏るるものの餓死せしを聞かず。餓死するの恐怖を捨てよ。汝信仰薄きものよ。

七、汝心を鎮めて良き日の来るを待て。変り易きは世の習(ならひ)なり。而して幸福なるものに取ては千代も八千代も変らぬ世こそ望ましけれども、不幸なるものに取ては変り行く世の中ほど楽しきものはあらざるなり。

我の貧は永久まで続くべきにあらず。世の風潮の変り来つて「我等の時代」とならん時は、我の飢渇より脱する時なり。

神は此世の富に勝る心の富を我に賜ふが故に、我れ終生貧なるものとも忍び得べし。地は善人の為めに造られしものなれば、我れ若し善と義を慕ふこと切ならば、神は必ず我に地の善き物をも与へ給ふべし。

我の今日貧なるは我心の為めにして、われが世の物に優りて神と神の真理とを愛せんがためなり。信仰の鍛錬既に足り、肉慾既に減殺せられ、我れ既に富貴に負くる憂(うれひ)なきに至つて、神は世の宝を我に授け給ふなるべし。

世に最も憫笑(びんせう)すべきものは、富を有して之を使用し能はざる人なり。富は神聖なり、故に神聖なる人のみ之を使用し得るなり。我れ貧して「人不惟以餅生(ひとはただべいをもつていきず)」を知れり。若し富の我に来るあらば、我は富を以て得る能はざる宝を得んがために之を使用すべし。我の貧なる、是れ我の富まんとするの前兆にあらずや。

八、我に世の知らざる食物あり(ヨハネ伝四章三十二節)。我に永遠(かぎりなく)渇く事なき水あり(同十四節)。人の栄誉として、彼は最高(いとたか)きもの即ち神を以てするにあらざれば満足する能はざるなり(ビクトル・ユーゴの語)。

而して我は此最上の食物と飲料(のみもの)とを有す。我は実に足れるものにあらずや。如何なる珍味と雖も純白なる良心に勝るものあらんや。罪より赦されし安心、神を友として持ちし快楽、永遠の希望、聖徒の交際(まじはり)・・・。

我は世の富めるものに問はん、君の錦衣(きんい)、君の荘屋、君の膳の物、君のホーム(若しホームなるものを君も有するならば)は此高尚、無害、健全なる快楽を君に与ふるや否や。

医師は言はずや、快楽を以て食すれば麁食(そしよく)も体を養ふべけれども、心痛は消化を害し、滋養品も其効を奏する少しと。真理は心の食物なるのみならず、亦身体の食物なり。

我の滋養は天より来るなり。浩然の気は誠に実(まこと)に不死の薬なり。貧しきものよ、悦べ、天国は汝のものなればなり。