0x14. 共働者イエス

今や人はみな重荷を負うて暮している、瑞(あえ)ぎながら人生の行路を辿っている。実にこの世に多くの艱難がある、心配がある、失望がある、又難(むず)かしき謎がある。吾等(われら)はかかる荷を負うてその重きに堪(た)えがたきを感ずるのである。もちろん時に我を忘れて苦し紛(まぎ)れの気焔(きえん)を吐かぬでもない、雄大なる自然の懐(ふところ)に抱かれて心腸(しんちょう)を一洗(せん)することもないではない。我を慰むるに歌あり、我を励ますに友あり、家庭の和楽(わらく)あり、事業の快味(かいみ)あり、しかもすべてこれらのものをもってして到底充(みた)すことの出来ない深い深い要求があるではないか。見よ何人(なんびと)の唇に感謝の歌が湧(わ)いているか、何人(なんびと)の眸(ひとみ)に希望の光が輝いているか、何人(なんびと)の頬(ほほ)に歓喜の色が溢(あふ)れているか、何人(なんびと)の腕に死をも恐れない勇気が充(み)ちているか。紳士とよ、彼等は社交に長(た)けている、しかし真の友を有(も)たない。学者とよ、彼等はあるいは万巻の書を渉猟(しょうりょう)したかも知れない、しかし真個(ほんとう)の真理を知らない。実業家とよ、彼等は霊魂の糧(かて)に乏(とぼ)しき乞食(こじき)である。政治家とよ、彼等は政権のために売られたる奴隷である。宗教家とよ、彼等は神と財(たから)とに兼(か)ね仕(つか)えんとする二頭の怪物である。吾等(われら)はただあちこちの労働者すなわち平民の中(うち)に僅(わず)かばかりの人らしき顔を見るのである、彼等は無用の虚栄心に悩まされない、生活問題もその低き生活と高き道念(どうねん)とに追い付かない、彼等には世の政治家実業家学者輩(はい)に見ることの出来ない喜色(きしょく)がある、がしかし彼等にも実は苦労の雛(しわ)の伸(の)びる暇とてはないのである、彼等に卑屈の相(そう)はない、しかし真個(しんこ)の独立 と自由との気象(きしょう)を見ることが出来ない、彼等に心配は少ない、しかし絶対の平安はまだその手に握っていない、彼等もやはり労する者重荷を負える者である、その日に焼けたる瞼(まぶた)にもしばしば涙の露(つゆ)が宿るのである、その逞(たくま)しき筋肉にもしばしば倦怠(けんたい)の色が現われるのである。ああ、吾等(われら)はみな鹿の渓水(たにみず)を慕うよりも切に平安を慕うてやまない、労働者と貴族と学者と政治家と、否(いな)全人類の背に負わされたる重荷を取り去ってその渇ける心に歓喜の泉を充(みた)すべきものは果たして誰であるか。

すべて疲れたる者また重きを負える者は吾(われ)に来たれ、我れ汝等を息(やす)ません(マタイ十一章二十八節)

喜べ楽しめ、汝の萎(な)えたる手を強くし弱りたる膝(ひざ)を健(すこ)やかにせよ。明白なる福音は吾等(われら)の耳朶(じだ)を打ちつつあるのである。その声に世の常の生温(なまぬる)き響きはない、絶対的である、無条件である、しかも最も個人的である。「往(ゆ)け救いの途(みち)は彼方(かなた)にあり」ではない。「来たれ、我に来たれ」である。指図ではない、招待(まねき)である、親友を呼ぶ言葉である、これよりも柔(やさ)しき声を聞くことは出来ない。「我れ汝等を息(やす)ません」という。「我れ汝等に息(やす)みを与えん」ではない、我自身汝等の息(やす)みとならんである、我自身を息(やす)みとして汝等に与えんである。驚くべきかな、吾等(われら)は未(いま)だかつてかかる申し出を受けたことはない。そは余りに嘘らしくある、何となればもしこの約束が真(まこと)であるならば「我」とはもちろん人以上のものでなくてはならない、しかもその貴(とうと)き身を贈物(おくりもの)として敢(あ)えて我等ごときものに提供せんとは果たして真実であろうか、吾等(われら)はかかる逆説(パラドックス)を信ずるに躊躇(ちゅうちょ)するのである。しかしながら彼は又いう、

我は柔和にして心の謙遜なる者なり(同二十九節)

「偉大なる者は我なり」とはいわない、「高潔なる者は我なり」とはいわない、「柔和にして謙遜なる者は我なり」と、しかりこれ実に彼の名である。これよりもふさわしき名を彼に附(ふ)することは出来ない。

見よ、学者、パリサイの徒(と)、政治家、軍人の恐れし彼に憚(はばか)らず近づきて、満腔(まんくう)の敬愛を献(ささ)げたる者の多数は婦人であったではないか。姦淫をなせる女の捕えられて彼の許(もと)に来たりし時の彼の裁判(さばき)は如何(いかが)であったか。己(おのれ)を敵に渡さんがために裏切らんとせる弟子を彼は如何(いか)に遇(あつか)いたまいしか。兵卒及(および)下吏(したやく)ども炬(たいまつ)と剣(つるぎ)とを携えて彼に迫りし時如何(いか)にして捕われたまいしか。唾(つばき)せられ鞭うたれ棘(いばら)の冠と紫の袍(うわぎ)とを被(き)せられあらゆる嘲弄(ちょうろう)侮辱を受けたまいし時の彼の態度はどうであったか。しかして終(つい)には十字架に附(つ)けられて却(かえ)って敵のためにその罪の赦されんことを祈りたもう。これ実に柔和の中の柔和であって吾等(われら)の怪(あや)しとするところである。そこに微塵(みじん)も自己の主張を見ることが出来ない。無限の信頼絶対の帰依(きえ)とはこの事である。蓋(けだ)し柔和とは己(おのれ)の力を殺して神の力の発現(はつげん)を待つことである、一切を神の御手に委(まか)せ奉(まつ)るがゆえに己(おのれ)の手を挙(あ)ぐるを要せざることである。イエスのこの世に来たりたまいしは神の聖旨(みむね)を成らしめんがために外(ほか)ならなかった、ゆえに彼は最初よりして信頼の人帰依(きえ)の人であった、彼の柔和はすなわち神の聖旨(みむね)の進むべき軌道であった。吾等(われら)はイエスの柔和に信仰の典型(タイプ)を認むるのである。吾等(われら)は柔和の人イエスに人の子―神に酔える人の子を見るのである。柔和とは畢竟(ひっきょう)人の神に対する絶対の信頼に外(ほか)ならぬのである。

イエスは又神の子であった。彼の神格は彼の罪無き生涯の証明するところである。彼は天において神と共にあった。人類にしてもしかくまでに堕落せざりしならば彼はその国を棄ててこの世に降臨(こうりん)するに及ばなかったのである。しかしながら人の罪を救わんがために神は遂にその独子(ひとりご)を送りたもうた、神の子は人としてこの世に降(お)り立った。しかも王侯の宮殿にあらず、天下の首都にあらずして、ユダヤの片隅(かたすみ)である、大工の家庭である、馬槽(うまぶね)の中である。何たる謙遜!更(さら)にその地上の一生を見よ。税吏(みつぎとり)及(および)娼妓(あそびめ)の友、らい病人に親しみ、弟子の足を洗い、遂に十字架を負うて雪よりも白き身に世の罪をことごとく引き受けたもう。神の子が人として生まるる既(すで)に驚くべき謙遜であるのに、人として死するに至っては余りに極端であるといわねばならぬ。しかしながらこれ実にやむをえぬことであった。彼は最初よりして世の罪を負う羔(こひつじ)である。親が子の苦しみを自分のものとして苦しむがごとく神が人の罪を自ら犯せしものとして処分したもうのである。神たるの栄光を棄てて人たるの恥辱を甘受(かんじゅ)したもう、神の独子(ひとりご)たるの幸福を棄てて罪人の贖い主たるの不幸を選びたもう。「それ神はその独子(ひとりご)を賜うほどに世を愛したまえり」。吾等(われら)はイエスの謙遜に恩寵(おんちょう)の結晶を見るのである。吾等(われら)は謙遜の人イエスに人煩悩の神の子を認むるのである。謙遜とは畢竟(ひっきょう)神の人類に対する切(せつせつ)々の同情に外(ほか)ならぬのである。

この柔和にして謙遜なるイエス・キリストは今現(げん)に吾等(われら)と共にありたもう。吾等(われら)は彼の姿を認むることは出来ない。しかし彼の霊の力を切実に感ずることが出来る、彼の呼び声をさやかに聞くことが出来る、彼は今もなお万人に向かって呼びたもうのである、「来たれ、我れ汝等を息(やす)ません」と。しかして心の貧しき者は最も敏(さと)くこの声を聞きつける。羔(こひつじ)よりも柔和なる彼の招きを受けて吾等(われら)は何を措(お)いても彼に往(ゆ)かざるをえない、限り無き親しみを感じて急ぎ起(たっ)て彼に往(ゆ)かざるをえない。「我が軛(くびき)を負うて我に学べ、汝等心に平安を獲(う)べし」と(同節)、すなわち謙遜なる彼は吾等(われら)の共働者(きょうどうしゃ)となりたもうのである。吾等(われら)と同じ軛(くびき)を共に負いたもうのである。世の罪を自己(おのれ)の双肩(そうけん)に負(にな)いたまいし彼は今もなお吾等(われら)の重荷の凡(すべ)てを引き受けたもうのである。しかして吾等(われら)はただ彼の軛(くびき)としてこれを負い、彼が絶対の信頼をもって父に委(まか)せたまいしごとくにすべてを彼に委(まか)せて安(やすん)ずればよいとのことである。彼の異常なる謙遜によって憚(はばか)らずして彼を共働者(きょうどうしゃ)と呼び、吾等(われら)の重荷を彼の肩にうち懸(か)け、しかして彼の柔和に学び、彼のごとく神に信頼すればよいとのことである。すなわち彼を共働者(きょうどうしゃ)とするに依(よっ)てすべての重荷に打ち勝ち、かつ神に頼(よ)れる深き平安を味わうことが出来るのである。彼自身がわが息(やす)みとなるのである。彼を措(お)いてかかる共働者(きょうどうしゃ)はない。ただ彼のみは朝(あした)より夕(ゆうべ)まで、昨日も今日も永遠までも変わらず、我と共に同じ軛(くびき)の下にある。しかして我れ疲るる時に我がために歌い、我れ蹟(つまず)く時に我を起こし、我れ前途を見失うとき我に希望の光を与う、我れ死の海に出でんとする時もなお我を離れず我が水先案内となりて神の国まで我を導いてくれるのである。実に彼と共にありて我は暫(しば)らくも神を忘るることは出来ない。彼と共にありて彼のごとく神と語らざるをえない。彼あるがゆえに神の愛は常にわが心を潤(うるお)し、神の平安はわが胸に漲(みなぎ)るのである。ああ、親しき共働者(きょうどうしゃ)イエス、彼はわがすべてである、我に賜いし神の恩恵(めぐみ)のすべてである。世の労働者よ、彼を友として汝の額(ひたい)の皺(しわ)を平(たいら)かにせよ。学者、貴族、政治家、宗教家、否(い)なすべて疲れたる又重きを負える者よ、往きて彼を友とせよ。しからば初めて汝等の深き要求は充(みた)されるであろう。