0x15. 教理と信仰

ナザレのイエスの説きたるキリスト教の教理は何であるか。詮(せん)じ詰(つ)むればただ神の愛である。しかしてこれはイエスが説きたるがゆえに真理であるのではない、何人(なんびと)が説きたりとも神の愛は永久の真理である。釈迦もこれを説いた、仏教の教義また詮(せん)ずるところこれに外(ほか)ならぬ。この真理を明らかにするがための説き方には色々あったかも知れぬ。皮膚の色は異(ちが)っていたかも知れぬがしかし骨は同一である。その教理より見てキリスト教と仏教とは必ずしも別物ではない。神の愛はすべての宗教の帰するところである。磁石が北極を指すように宗教という宗教は皆この真理を目指しているのである。

しからば何ゆえ独(ひと)りキリスト教のみが余を救うてその他(ほか)の宗教は余を救うことが出来ないのであるか。

余は素(も)と仏教に負うところ甚(はなは)だ多い。ことに我が国の親鸞上人(しんらんしょうにん)の称(とな)えたる真宗(しんしゅう)のごときはその単純にして深奥(しんおう)なる教理が強く余の心を引きつけるのである。そのただ聖名(みな)の奉唱(ほうしょう)すなわち信仰のみによりて救わるという思想や罪人ほど一層深く如来(にょらい)に愛せられるという信念のごときは、これを余の手に握り占(し)め余の胸に抱き占(し)めたく欲(おも)うのである。現(げん)に余は幾度(いくた)び仏教の教えによって慰安(いあん)を獲(え)たかも知れない。余の失望せる心に向かって親鸞上人(しんらんしょうにん)の手より温(あたた)かき同情を投ぜられたる事は決して少なくない。それにもかかわらず仏教は遂に余の力となることは出来なかった。彼は光明の所在を示してくれたけれどもそこに達すべき途(みち)を教えてくれなかった。彼は余の心に高き理想を抱(いだ)かしめたけれども余の全心(ぜんしん)に大革命を起こし、旧(ふる)きは去って皆(みな)新しく成(な)らしむるの力は無かった。余をして余の所有物(もちもの)をことごとく棄て去り、赤裸々(せきらら)となってただ神の愛にのみ頼らしむる力は無かった。痛切なるあるいは強大なる誘惑の襲撃に対して泰然(たいぜん)として「サタンよ退け主たる神を拝しただこれにのみ仕うべし」と言わしむるの力は無かった。いわんや死の手が今や余を拉(らっ)し去らんとする時に、

ああ日没、明星(みょうじょう)見ゆ
我を喚(よ)ぶ声のあざやかさ
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大潮(おおしお)は遠く我を運ばんも
我一度(ひとたび)沙洲(さす)を過(す)ぎなば
我が水先案内を面(ま)の当(あたり)に見ん(テニスンの詩、畔上氏訳による)

と歌わしむるだけの力がないことは明らかである。実(まこと)に余は仏教の招きに応じ余の傷手(いたで)をつつんで彼に赴(おもむ)くも、彼は安(やす)からざるに安(やす)しと宣言するのである。彼の言葉は甘くかつ清い、しかし彼の手は余の五尺の体(たい)を支うるに足りない。彼は平常無事の日においてあるいは余の友らしく見ゆるかも知れない、しかし余の心の顛倒(てんとう)せんとする時に余の杖たるの用をなさない。これを要するに仏教の提供するものは陰影(いんえい)であって実体ではない、救いの宣言であって救いの綱(つな)ではない、彼に頼って救いに入(い)らんと欲(ほっ)するも遂に失望に終るの他(ほか)なきはまことにやむをえないのである。

蓋(けだ)し信仰は信念ではないのである。信仰は信頼である、依頼である。神を信ずるとは単に神は愛なりと思惟(しい)することではない、自己の身体(しんたい)財産は素(もと)より心霊までをも賭(と)して神の愛にうち頼るのである。自分という自分を一切(いっさい)投げ出してお委(まか)せするのである。万一(まんいち)間違ったとするならば実(じつ)に永久取り返しのつかざる最大の冒険である。何人(なんびと)がこの冒険の保証をするか。宗教家の説教や預言者の預言ではとてもこの重大なる保険に値(あたい)しないのである。いわんや一教一派の教理のごときは空虚の響きである、これに自己を託(たく)するは氷に火を託(たく)するよりも危険である。我等に対して神の愛の保証をするものは又それ自身神に等しき信用を有するものでなくてはならない、しかも我等と同じ血と肉とを備え我等の眼(め)をもって見、手をもって触れうべき生きたる人格者でなくてはならない。人にして罪なき者、神にして肉を備えたる者、もしかかる者が世にあってその行いをもって神の愛を保証してくるるならば、我等は安んじて信頼することが出来るであろう。もしかかる者が我等の罪のためにその生命(いのち)までをも犠牲にしてくれるならば、我等は最早(もはや)神を疑わんと欲するもあたわない。もしかかる者が神の独子(ひとりご)であって、神が我等を愛したもうの余りその独子(ひとりご)を我等に賜うたのであるとしたならば、我等は今や彼自身を我等の主と仰ぎ、自ら彼の僕(しもべ)となって一切(いっさい)を彼に委(まか)せ、ただ彼の命(めい)のままに服従することが出来るのである。彼の霊を我等の霊の内に迎え、彼をして我を征服し支配せしめ、我に死して彼に生くることが出来るのである。我の力なるものをことごとく棄て去り、彼の力をそのままに我がものとすることが出来るのである。従って彼と共に神に向かいアバ父よと呼びかくることが出来るのである。彼を伴侶(とも)としてあらゆる誘惑に打ち勝つことが出来るのである。彼を水先案内として死の瀬戸(せと)をも勇ましく打ち超ゆることが出来るのである。これすなわち信仰である。この偉大なる伴侶この力強き水先案内がなくして、何人(なんびと)が神の愛を疾呼(しっこ)するとも余は到底信ずることが出来ない。

ああ、この伴侶(とも)この水先案内は何人(なんびと)ぞや、神の子は果たして何人(なんびと)ぞや、ナザレのイエスこそはその人ではないか。我等と同じ肉を享(う)けてしかも罪を犯ししことなく、十字架に釘(つ)けられてなお人を愛し、死して後(のち)甦りしイエス・キリストこそは紛(まご)うかたなき神の子ではないか。彼に依り頼み彼の肉を食らい彼の血を吸うて初めて永生(えいせい)は我等に臨(のぞ)み神の愛は我等のものとなるのである。救いの途(みち)はただイエス・キリストにのみあるのである。彼あるがゆえに救わるるのである。キリスト教の教理必ずしも優秀なるにあらず、イエスの教えは必ずしも釈迦の教えに勝(まさ)らない。問題はただイエスその人を受くるか否(いな)かにある。彼を抜きにしたる仏教その他の宗教が余を救うあたわざるは少しも怪(あや)しむに足りない。ゆえに又たとえクリスチャンと称(しょう)するも、イエスの教えを聞いたばかりで彼と一つにならざるものは到底神の愛を我がものとすることは出来ない。ただ全く彼と結び付いて初めて我等は磐(いわお)の上に立ちしがごとく安全なることをうるのである。マタイ伝七章二十四節以下はすなわちこの事を教えるものに過ぎない。

このゆえにすべて我がこの言(ことば)を聞きて行う者を磐(いわお)の上に家を建てたる智(かしこ)き人に譬(たと)えん、雨降り大水(おおみず)出(い)で風吹きてその家を打てども倒るることなし、これ磐(いわお)を基礎となしたればなり。すべて我がこの言(ことば)を聞きて行わざる者を沙(すな)の上に家を建てたる愚かなる人に譬(たと)えん、雨ふり大水(おおみず)出(い)で風吹きてその家を打てば倒れてその傾覆(たおれ)大いなり。

「我が言(ことば)を聞きて行う者」「行わざる者」とあるその「行う」という字は原語にてあるいは「獲得する」「創造する」「守る」等の意義を有する語である。ここに記されたるも畢竟(ひっきょう)「イエスその人を我がものにする」、あるいは「旧(ふる)き自己を彼と共に十字架に附(つ)けて新しき自己を創造する」、あるいは「彼を主と仰ぎ彼の僕(しもべ)となりて絶対的に彼の命令に服従する」等の意義を寓(ぐう)するのであって、つまりイエスその人に対する信仰を意味するに外(ほか)ならぬ。彼自身が真理であるから、彼の言(ことば)を行うとはすなわち彼自身を身に体(たい)することである。