0x22. 活ける水

イエスはいまガリラヤ指(さ)して旅したもう途上である。途(みち)は日頃ユダヤ人と互いに蔑視(べっし)して交際をなさざるサマリアにかかった。とある小邑(しょうゆう)のほとりに辿り着きたまいし頃は早(は)や日も高く昼の十二時頃であった。路傍(ろぼう)に見ゆるは由緒(ゆいしょ)も深きヤコブの井(いど)である。水に不自由なるユダヤの曠野(あれの)を歩みたもうことすでに半日、身は相応に疲倦(つかれ)を催(もよお)し喉(のど)は少なからず渇いている。イエスは座したもうた。簡単なる昼食(ちうじき)を備えんとて弟子たちは邑(むら)に立ち去った。引きかえに現われ来たりしは水瓶(みずがめ)を小脇(こわき)に抱(かか)えしサマリアの婦(おんな)である。井(いど)の傍(そば)に見識(みし)らぬユダヤ人の蹲居(そんきょ)せるを見て小(こ)うるさしとや思いけん、されど何気無(なにげな)き素振(そぶり)にて汲器(つるべ)を下げた。その時イエスは徐(おもむ)ろに口を開きて「我に飲ませよ」と要(もと)めたもう。婦(おんな)は意外なる面持(おももち)である。「汝はユダヤ人にして何ぞサマリアの婦(おんな)なる我に飲むことを求むるや」、彼女は怪しまざるをえなかった。しかしイエスは答えたもうた、

汝もし神の賜(たまもの)と我に飲ませよという者の誰(たれ)なるを知らば汝(なんじ)我(われ)に求めん、さらば活(い)ける水を汝に与うべし、

ユダヤ人なりとて怪しむなかれ、汝もしかく言う者の何人(なんびと)なりやを知らば我いま汝に水を求むるごとく汝もまた我に求めん、しからば井(いど)の水ならぬ活(い)ける水を与うべしと。婦(おんな)の怪訝(かいが)は一入(ひとしば)募(つの)った。汲器(つるべ)なく井(いど)もまた深きに活(い)ける水とは何処(いずこ)より汲(く)みしものなるべき、そもそもかかる不思議を語るこの人は果たして誰(たれ)ぞやと。しかしイエスはなおも続けたもう、

「すべてこの水を飲む者はまた渇かん、されど
我が与うる水を飲む者は永遠に渇く事なし、かつわが与うる水はその中(うち)にて泉となり湧き出(い)でて永生(かぎりなきいのち)に至るべし」

井(いど)の傍(かたわら)にて水の話である、ユダヤ人がサマリアの婦(おんな)に言うとはとの怪訝(かいが)に対して、「我の誰(たれ)なるを知らば」といいたもうのである。話題は極めて自然的である。ここに一杯の水を求むるの序(ついで)に深遠なる真理を語りたもうと気付(きつ)かざるは、独(ひと)りサマリアの婦(おんな)のみではあるまい。しかし我等は見落としてはならない。日常平凡の事例をもって神の真理を説明したもうはイエスの常の筆法(ひっぽう)である。彼は今人類の救済について語りたもうのである。神の愛と信仰とについて語りたもうのである、パウロの言葉にて義と聖と贖(しょく)とについて語りたもうのである。しかりこの簡単なる井端(いどばた)の立話(たちばなし)の裡(うち)に限りなく深き真理がある、キリスト教の奥義がそこに籠(こ)もっておるのである。

「汝もし神の賜(たまもの)と我の誰(たれ)なるとを知らば」

神の賜(たまもの)とは何であるか、順(よ)き境遇か、幸福なる家庭か、知識か、徳義(とくぎ)か、あるいは又親しき友人であるか、否(いな)神はかかるものを我等に賜(たま)う前に驚くべく貴(とうと)き賜(たまもの)をたもうたのである。しかし我等はただ神の賜(たまもの)の何であるかを胸に思い浮かべて見るだけでは遂にこれを発見することができない、我等は出(い)でて捜さなければならない、遠くパレスチナの一角(いっかく)髑髏(どくろ)山上に辿(たど)りてそこに立ちたる十字架を仰ぎ見なければ分(わか)らない。これを仰ぎ見るときに我等はあたかも畑に蔵(かく)れたる宝を発見したるがごとくに驚きと悦(よろこ)びとに打たるるのである。その十字架の上に釘(つ)けられたる罪なき囚人(めしうど)、終わりまで世を愛し、愛したるがために却(かえっ)て死をもって酬(むく)いられ、しかもなおかつ世のために祈りたもう、彼は神の独子(ひとりご)でなくてはならない。果たしてしからば神は我等にその愛を知らしめんがために独子(ひとりご)をさえも賜(たも)うたのである。これはこれ驚くべき賜(たまもの)ではないか、十字架に釘(つ)けられたる神の独子(ひとりご)、彼を仰ぎ見て我等は叫ばざるをえない、これである、これである、神の心づくしの賜(たまもの)はこれであると。

彼の首(こうべ)はうな垂(だ)れておる、その頭(かしら)には棘(いばら)の冠がある。しかし彼を熟視(じゅくし)して我等は知る、この神の独子(ひとりご)こそは二年の昔サマリアの野なるヤコブの井(いど)の傍(かたわら)にて水汲みに来たれる婦(おんな)と語りたまいしかのユダヤの旅人なることを、「我に飲ませよ」と求めたまいしイエスその人なることを。さては神の貴(とうと)き賜(たまもの)はすなわち彼自身にてありしか、世を救わんために来たりたまいし神の独子(ひとりご)は彼にてありしか。宜(うべ)なり、「汝もし神の賜(たまもの)と我に飲ませよという者の誰(たれ)なるを知らば汝(なんじ)我(われ)に求めん」と。しかり彼が神の独子(ひとりご)にていましたもうならば我等は彼を信じ彼に求めざるをえない、願わくは罪と死より救いたまえと、かくして我等は弱き自己をこのまま彼に引き渡すのである。

「さらば活(い)ける水を汝に与うべし」

活(い)ける水とは不思議なる言葉である。かかる言(ことば)を初めて聞きしサマリアの婦(おんな)が汝何処(いずこ)より汲みてその活(い)ける水を有(も)てるかと怪しみたるも無理ではない。しかしこれは汲器(つるべ)にて汲み取る物質の水でないことは明らかである、何となればこれを飲む者は永遠に渇くことなしとあるからである。しからばあるいは愛とか正義とか真理とかいう精神上の徳性又は知識の類(るい)であろうか、あるいは幸福とか安心とかいう境遇又は感情の類(るい)であろうか。神の独子(ひとりご)の我等に賜(たま)うものと聞いて、神の賜(たまもの)について懐(いだ)きしと同じようなる疑問を再び繰り返すのである。しかしこれまた脳裏の想像をいかほど巡らしたればとて解することはできない。活(い)ける水の何たるかは十字架上のイエスに自己を引き渡したる者にして初めてこれを実験することができる。これは口もって説くあたわず眼もって見るあたわず、ただ霊をもってのみこれを解しうる。しかりイエスの前に献(ささ)げられたる砕けたる霊のみがよくこれを解するのである。

活(い)ける水はもちろん物質ではない。さりながら又単に徳性や知識ではない、境遇でも感情でもない。活(い)ける水はすなわち活(い)ける者である、人格者である。彼は常に我等と共にありて我等を導きかつ慰むる友である(ヨハネ十四章十六、二十六節、十五章二十六節、十六章七節)、すべての事につき信頼すべき唯一の伴侶である。彼を友として我等は内なる罪にうち勝ち又外なる世にうち勝つのである。しかし彼は人ではない、彼に肉体はない、彼は霊である(七章三十九節、十四章二十六節)、真理の霊である。父より出(い)でたる真理の霊であって、イエスのために証しをなし、又すべての真理を我等に知らしむるものである(十四章十七節、十五章二十六節、十六章十三節)。彼に導かれて我等はイエスの兄弟となり、神を父と呼ぶことができるのである(ロマ八章十四、十五節)。すなわち彼は子たる者の霊であって、彼を受けたる者のみが神の子と呼ばるるのである。しかり彼は子たる者の霊である、神の独子(ひとりご)たるイエス・キリストの霊である。キリスト今はこの霊によりて働きたもう、ゆえにまた彼を信ずる者の霊の内に来たりて自ら宿りたもうのである。かくして我等は彼と共に神の子たるの地位を獲得する。神の独子(ひとりご)たるイエスを信じ彼を主と仰ぐときに彼の霊が我に臨(のぞ)みてここに全く新たなる生活が始まるのである。活(い)ける水を受くるとはすなわちそのことに外(ほか)ならない。

「わが与うる水を飲む者は永遠に渇くことなし」

この霊一度(ひとた)び我等に臨(のぞ)むや窮(かぎり)なく我等と共にあるのである(ヨハネ十四章十六節)。我等はもはやしばらくも孤独であることはできない、しばらくも彼の導きと慰めとより離るることはできない。もし過(あやま)って彼を離るるときは彼は直(ただ)ちに来たりて我を取り戻すのである。ゆえに彼を受けたる者はたとえ過(あやま)って罪を犯すとも又直(ただ)ちに彼に立ち帰るのである。かくして我等は再び罪の軛(くびき)を負いてその奴隷となることはない。罪はなお我等を離れ切らざるも最早(もはや)我等の主人ではない、主人は活(い)ける水なる聖霊である。彼はすなわち真理の霊であるから彼と共にありて真理に渇くの憂(うれ)いはない。彼は又慰むる者であるから彼を伴侶として同情に渇くの虞(おそれ)はない。彼の慰籍(いしゃ)と指導との下に我等は日々に平康(やすき)と聖潔(きよめ)とを獲(え)て行くのである。

「かつわが与うる水はその中(うち)にて泉となり湧き出でて永生(えいせい)に至るべし」

それのみではない、この与えられたる水がいつまでも我等の中(うち)にあるのみならず、それが一つの泉となりて更に新たなる水が湧き出(い)づるというのである。我等の中(うち)に宿りし霊が常に我等と共にあるのみならず、その中(うち)よりさらに新たなる生命(せいめい)が生まれ出(い)づるというのである。実(まこと)に彼を胸に懐(いだ)きてより従来(いままで)識(し)らざりし貴(とうと)き力が限りなく溢(あふ)れ来たりて、我等の地上における生活が益々(ますます)豊贍(ほうせん)なるものとなり行くはもちろんあるが、最後にこの朽つべき肉体が朽ちてしまう時に永久に朽ちざる完全なる生命(せいめい)が新たに彼より賦与(ふよ)せらるるのである。この生命は全く疵(きず)なく汚(しみ)なきものであって、キリストの栄(さかえ)に似たる栄光の生命(せいめい)である。その時罪は最早(もはや)痕跡(こんせき)をも留(とど)めずなり、ただ聖(きよ)き愛をもって充実するのである。我等はもちろん生まれながらにしてかかる貴(とうと)き生命(せいめい)を獲得すべき資格も能力も有(も)たない。我等は自己にのみ頼るときは遂に死して朽ち果つるの外(ほか)はない。しかしながらただイエスの何人(なんびと)なるかを知り、彼に頼りて彼より活(い)ける水すなわち聖霊を受くるときは、聖霊そのものが泉となりてこの貴(とうと)き永世(えいせい)を我等の内に湧き出(い)でしむるのである。すなわちこれは全然彼の賜(たまもの)である、我等に与えらるる最大にして最後の恩寵(おんちょう)である。

かくのごときがいわゆる活(い)ける水である。疲れたる身を暫(しば)し路傍に休ませて一杯の水に喉(のど)を潤(うるお)さんとするにあたり端(はし)なくもこの深遠なる福音を初見(しょけん)の一サマリア婦人に伝えたもう。驚くべきはイエスなるかな。婦(おんな)初めはなおその意味を汲(く)み取り兼(か)ねしも遂に水瓶(みずがめ)を遺(のこ)して邑(むら)に行き人々に来たりてキリストを観(み)よと言い触れしといえば、恐らく神の賜(たまもの)と我に飲ませよと言いし人の誰なるを少しく解(かい)しえたのであろう。先にはユダヤ人の宰(つかさ)にてパリサイの学者なるニコデモ彼に来たり懇(ねんごろ)に教えらるるも遂に覚(さと)らず、いかでこの事あらんやと言いて去りしに、今は名も無きサマリアの一婦人、しかもかつて五人の夫を有(も)ち現(げん)に夫ならざる者と共にあるの罪人、井端(いどばた)に立ちて語(ご)を交(かわ)すこと三言(こと)五言(こと)にして遂にイエスの神の子なるを知り驚きと悦(よろこ)びとの余(あま)りこれを人々に伝えんとて蒼皇(そうこう)走り去る、実(まこと)に福(さいわい)なるは智者達者(ちしゃたっしゃ)にあらずして赤子の心をもてる罪人である。神の賜(たまもの)とイエスの何人なるとはかかる人に顕(あら)われて驚くべき活(い)ける水が与えらるるのである。かくて二千年前サマリアの野における一場(じょう)の水問答(もんどう)は我等のために限り無き福音を遺(のこ)したのであった。(ヨハネ四章)