0x23. 来世の希望

我(わ)が行先(ゆくさき)は何処(いずこ)であるか、我はこれを知らない。これを隣人(りんじん)に問えば皆指さして言う、彼処(かしこ)である、彼処(かしこ)にて永(なが)き眠りが我等を待つのであると。その指さす処(ところ)はすなわち墓である。ああ、果たしてしかるか。

もし隣人(りんじん)の言(げん)をして真(しん)ならしめよ、人生五七十年決して長しと言うことはできない、しかしてその間(あいだ)にありて我等の求むべきものは何であるかが分らない、何を求むるとも僅(わず)かに墓までの間、しかしてその入口にてすべてを投げ出さなければならぬならば畢竟(ひっきょう)これ空(くう)である、しかりその時は我等もまた伝道の書の記者と共に「空の空、空の空なるかな、すべて空なり」と叫ばざるをえない。知識の探究?哲学の奥義(おうぎ)を究め人生の目的を探りて、よし我はわが知嚢(ちのう)の重きにささやかなる誇りを感ずとも、帰(き)するところ自己の行先(ゆくさき)の墓に過(す)ぎざるを確かむるのみならば知識はむしろ詛(のろ)うべき憂患(ゆうかん)ではないか。

われ心を尽くし智恵を用いて天(あめ)が下に行わるる諸(もろもろ)の事を尋ねかつ調べたり……われ心の中(うち)に語りて言う、ああ、我は大いなる者となれり、我より先にエルサレムにおりしすべての者よりも我は多くの智恵を得たり、わが心は智恵と知識を多く得たり、……それ智恵多ければ憤激(いきどおり)多し、知識を増す者は憂患(わずらい)を増す(伝道の書一章十三、十六、十八節)

知識求むるに足らず、さらば逸楽(いつらく)か。しかりこれ現代最大多数人(じん)の求むるところである、否(いな)単に現代のみと言わない、「我等飲みかつ躍ろう、明日死ぬかも知れぬから」と古人がすでに言うておる。実(まこと)に現世(げんせい)を終局と見て逸楽(いつらく)以外のものを求むるは愚(ぐ)である。墓を界(さかい)として万事休(ばんじきゅう)するならば霊性の向上畢竟(ひっきょう)何物(なにもの)ぞ、社会の改良畢竟(ひっきょう)何物(なにもの)ぞ。道徳とよ、それは享楽のための方便に過(す)ぎない、博愛とよ、それは利己のための手段である、真の目的は逸楽(いつらく)にある、短きこの世の日の暮れぬうちに一杯の酒をも多く飲みたる者が利口者である。しかしこれ実に徹底したる論理ではない。その前提すでに絶望である、自暴自棄(じぼうじき)である、人生の意義の否定である、かくして逸楽(いつらく)がその目的であると言うとも論理を成さない、人生無意義ならば逸楽(いつらく)また無意義たらざるをえない。

来たれ我試(こころ)みに汝を喜ばせんとす、汝逸楽(たのしみ)を極めよと、ああ、これも又空なりき、……およそ我が目の好む者は我これを禁ぜず、およそ我が心の悦(よろこ)ぶ者は我これを禁ぜざりき(二章一、十節)

事業は如何(いかん)。政治、産業、土木、慈善、社会改良、風紀矯正、その名美(うる)わしくその実(じつ)もまた少しく意味あるもののごとくである。しかしながらこれら現世(げんせい)の改善により人の幸福を増す畢竟(ひっきょう)幾何(いくばく)ぞ。穀(こく)は倉に充(み)つるも心は義に飢え、制度完備するも罪の癒(いや)さるる途(みち)なくんば、事業の価値また知るべきのみ。事業のための事業ではない。もし霊のための事業にあらずんばすなわち肉のため、逸楽(いつらく)のための事業である。誰(たれ)かいう事業の成功と。現世のみを目的として事業の成功はまた人生の失敗たるに外(ほか)ならない。

われ我が手にてなしたる諸(もろもろ)の事業を顧(かえり)みるに皆(みな)空(くう)にして風を捕うるがごとくなりき、日の下(した)には益となるものあらざるなり(二章十一節)

幸福なる家庭!これは慕うべきものであるに違いない。しかしこれを人生の目的とするには余りに貧弱である。わが霊と肉とのすべての活動すべての労苦がただ家庭の幸福を中心として動くのであると聞いて、我等はその報償の過小にしてその目的の自己本位なるに驚かざるをえない。しかのみならず家庭の幸福はいかにして獲得せられ、いかにして維持せらるるか。患難、死別、愛情の冷却等(とう)の害虫が喰い入らんとするときに、現世主義の人生観はよき門守(かどもり)たるに適しない。

日の下に汝が賜わるこの汝の空(くう)なる生命(いのち)の日の間(あいだ)汝その愛する妻と共に喜びて暮らせ、汝の空(くう)なる生命(いのち)の日の間(あいだ)しかせよ(九章九節)

しかりこの書の記者の繰り返して言うがごとくすでに「汝の空(くう)なる生命(いのち)の日の間(あいだ)」である、家庭の幸福のゆえにこの生命(いのち)が空(くう)ならざるを得るというのではない、愛する妻と共に喜びて暮らすまた空なりというのである。

実(まこと)にもし墓が我等の行先(ゆくさき)であるならば、この世にありて我等の目的となしうべき価値のあるものは一も無い。この世の提供するものは我等の最も欲する処(ところ)のものでない。しかして我等の最も願う処(ところ)のものは現世(げんせい)のみでは充(みた)されないのである。我等は生まれながらにして二三の大いなる要求を荷(にな)うて来ている。墓に至るまでの短き暗(くら)き旅路にては何処(どこ)にもこの荷を卸(おろ)して安(やす)らうべき処(ところ)はない。もし墓の彼方(かなた)に美(うる)わしき園(その)があって、そこにてこの重荷がことごとく取り除かれ心の疲れが隈(くま)なく癒(いや)さるるにあらずんば、我等の一生は全然失敗である。

我等はまず第一に罪よりすっかり潔(きよ)められたいとの、いとも切なる要求を有(も)っておる。十重二十重(とえはたえ)に我等の身を縛れる罪の絆(きずな)を見事(みごと)に断ち切って雪よりも白きものとなりたい。朝(あした)より夕(ゆうべ)まで罪の悩みに泣かざること幾時(いくとき)ぞ、愛すべき人を愛せんとして愛することをえず、汚れたる物より眼を反(そむ)けんとして却(かえっ)て心奪われ、あるいは黒しと知りつつこれを白しと言い、利己、倣慢、冷酷、虚偽、卑怯、嫉妬、虚栄、情慾……数知れぬ頭(あたま)をもたげて罪の蛇は我に纏(まと)うのである。我は罪を憎まざるにあらず、否(いな)その醜陋(しゅうろう)汚穢(おかい)に戦(おのの)き恐れつつしかもなおこれを棄て去ることができない、罪との悪縁全く絶え果つるにあらざれば我は枕を高うして眠ることができないのである。憎むべき罪よ、汝は実(じつ)にわが憂患(わずらい)である、汝だになかりせば我は短き現世(げんせい)のみにても満足せんものを。

我は罪の下(した)に売られたり、そは我が行う所のものは我もこれを善(よ)しとせず、我が願う所のものは我これをなさず、我が憎む処(ところ)のもの我これをなせばなり……われ内なる人については神の律法を楽しめども、我が肢体(したい)に他の法(のり)ありて我が心の法(のり)と戦い、我を虜(とりこ)にして我が肢体(したい)の中(うち)におる罪の法(のり)に従わするを悟れり、ああ、われ悩める人なるかな、この死の体より我を救わん者は誰(たれ)ぞや(ロマ七章十四節以下)

ああ、われ悩める人なるかな、何人(なんびと)によりていかにして救われるのであるか。我は知る、この短き現世(げんせい)において人は罪より全然潔(きよ)め尽くさるることのできない事を。我は幸いにしてややに罪より遠ざかりつつある、しかも日(ひ)既(すで)に午(ひる)を過(す)ぎて行途(ゆくて)はいとも遥(はる)けし、この世の日没までにはとても旅行は終らないのである。有史以来五千年、生をこの世に享(う)けし者幾百億にして未(いま)だ神の子イエス・キリストを除く外(ほか)、一人の完全に罪より絶縁したる者あるを聞かない。実(まこと)にこの世は罪の宿である、我等はここに客たる限りその臭気(におい)の多少にても身に染(し)むるを免(まぬか)れ難(がた)いのであろう、罪より潔(きよ)められんとして我等の望みはこの世に繋(つな)がるをえないのである。

要求の第二は永生(えいせい)である。死の手が無理やりに我を拉(らっ)して往(ゆ)こうとする時、ただ「さようなら」と言った切(き)り我なるものが全く消えてしまうとは堪(た)え難(がた)きことである。すでに我を遺(のこ)して飄然(ひょうぜん)として去りしかの愛する者と最早(もはや)永久に再会の機がないのであったらば如何(いかん)。肉体の朽ち果つるは実(まこと)にやむをえない、しかしそれと共に「我」なるもの「彼」なるものが朽ちてしまうのであるならば、

人の世に在(あ)る何故(なにゆえ)か
無限に吸われ死に呑まれ
意味なき過去と消えんためにか(テニスン詩、「愛吟」訳出)

これ実(じつ)に我等の堪(た)うる処(ところ)でない、

受造者(つくられしもの)の空虚(くうきょ)に帰せらるるはその願う処(ところ)にあらず……我等も自ら心の中(うち)に歎(なげ)きて身体(からだ)の救われんことを俟(ま)つ(ロマ八章二十、二十三節)

すなわち肉体の朽ちたる後になおそれに代(か)わる朽ちざる生命(いのち)の与えられん事を切望する。この世の向こうになお彼世(かのよ)のあらん事は我等の深き要求である、祈求(ねがい)である。

要求の第三は神――真(まこと)の父なる神を見たい事がそれである。神とよ、そんな者は我が胸の中(うち)に影も見当らないと言う者があるかも知れない。よし卿(けい)は暫(しばら)く無神論者としてあるがよい、しかしながら卿(けい)もまた人である、今に時が来るのである――何かは知らず慕わしさに堪(た)えざる時が――その時卿(けい)の頭は豪然(ごうぜん)として言うであろう、我何(なん)ぞ神を要(よう)せんと、しかし卿(けい)の心が裏切るのである、そしてそっと胸の戸を開いて彼を迎えんとするであろう。人の神を慕う要求は必ずしも痛切ではあるまい、実(じつ)に人は多く彼を忘れている、しかしながら放蕩息子も遂に父を憶(おも)い出すの時が来る。その時父見たさは何よりも深き要求となるのである。その時彼もまたピリポと共に叫ばざるをえない、

主よ我等に父を示したまえ、さらば足れり(ヨハネ十四章八節)

と。しかして我等はこの世にありて朧(おぼ)ろに神を見ることはできるけれども残る隈(くま)なく明白に彼の姿をうち仰ぐことはできない、鏡をもて見るごとく昏然(おぼろ)には見るを得(う)とも未(いま)だ面(かお)を対(あわ)せて相見(あいみ)ることはできない。肉に繋(つな)がれておる限り薄き顔覆いが全く取り除かるる時はないのである。しからばその時は何時(いつ)になったらば来るのであろうか。墓の此方(こなた)かはた彼方(かなた)か、そもそもまたその時が永久に来ないのであるか。

無罪(むざい)と永生(えいせい)と見神(けんしん)と、かくも大いなる要求を荷(にな)うて我等はその充(みた)さるべき処(ところ)を捜すもこの世には到底見当らないのである、もし墓より先に行先(ゆくさき)がないならば、我等はただ的(あて)もなく歩(ほ)を運んでいるのであるか。パンを求めて石を与えらるるも我等の飢えの癒さるる筈(はず)がない。この世がその尊(とうと)ぶすべての宝を我等の眼の前に羅列(られつ)するとも、この三のものが得られないならばただに悦(よろこ)びでないのみならず、そは徒(いたずら)に憂いの種である。我等の望みをこの世にのみ繋(つな)いで、絶望はわが人生観とならざるをえない。しからばすなわち眼を挙げて来世(らいせい)を望まんか、誰(たれ)か墓の彼方(かなた)につき確実なる保証を与うるものぞ。

それ神はその生みたまえる独子(ひとりご)を賜うほどに世を愛したまえり(ヨハネ三章十六節)己(おのれ)の子を惜しまずして我等すべてのためにこれを付(わた)せる者はなどか彼に添えて万物(ばんぶつ)をも我等に賜わざらんや(ロマ八章三十二節)

神は我等を愛するの余り、我等を救わんとの熱心の余り、すでにその独子(ひとりご)を賜(たも)うたのである。見よ十字架上のイエス・キリストを。我等は未(いま)だかつてかかる愛を見た事はなかった。この愛はどうしても人の愛ではない、この愛を顕(あら)わしたる者は神御自身の代表者たるその独子(ひとりご)より外(ほか)ありえないのである。ああ、神はその独子(ひとりご)を我等に賜いしか、恩寵(おんちょう)と真理(しんり)とに充(み)てる栄光の独子(ひとりご)をも我等のために惜しまずして付(わた)したまいしか。これは理想にあらずして史上の事実である。二千年前エルサレム郊外カルバリー山上に人の罪とそれに対する神の愛とは遺憾なく顕(あら)われたのである。神の我等に賜うべき恩恵を想像してこれよりも大いなるものに思い当ることはできない。最上のものを先(ま)ず賜うたのである、しかしてこれをもって神は保証したもうのである。その独子(ひとりご)の流したまいし血をもって神は我等に約束したもうのである。すでに現われたるこの絶大の恩恵(おんけい)を見て、後に現わるべきすべての恩恵を疑うことはできない。神は必ず万物をも我等に賜うに相違ない。しかも必ず「彼に添えて」である。先(ま)ず最上の恩恵たる「彼」を受けずして、別に「万物」を受くることはできない。「彼」が万物を受くるの途(みち)である。彼を受けて初めて神と我との和睦(やわらぎ)が生ずる。神の先(ま)ず彼を賜いし理由はここにある。彼をだに受けんか、我等の眼は未(いま)だ見ざりし処(ところ)に向かって開け、新しき望みは族々(ぞくぞく)と頭(あたま)をもたげて来る。その時より「我等の顧(かえりみ)る処(ところ)は見ゆる処(ところ)の者にあらず、見えざる処(ところ)のもの」となるのである。その時より我等は墓の向こう側に栄光の国を望むのである。その時より我等は自己の行先(ゆくさき)を発見して雀躍(こおどり)して喜ぶのである。「我等ここにありて恒(つね)に存(たも)つべき城邑(みやこ)なし、ただ来たらんとする城邑(みやこ)を求む」(へブル十三章十四節)。今や来世(らいせい)は神の賜うべき新たなる恩恵として最も確実なる希望を繋(つな)ぐ処(ところ)である。己(おのれ)の子を惜しまずして賜(たま)える者はなどか彼に添えて来世(らいせい)をも賜わざらんやである。我等はイエスを信ずるがゆえに、又疑わずして来世(らいせい)を待ち望むのである。

来世(らいせい)!彼処(かしこ)にて我等の切なる要求がすべて名残(なごり)なく充(みた)さるるのである、彼処(かしこ)にて親しく神と面(ま)の当り相接することができる、顔覆いは綺麗に除かれて神の栄光は隅々(すみずみ)までも明白に輝き渡るのである。神の智慧の奥義に至るまで完全に我等のものとなるのである。

我等今鏡をもて見るごとく見る処(ところ)昏然(おぼろ)なり、されど彼(か)の時には面(かお)を対(あわ)せて相見(あいみ)ん、我今知ること全(まった)からず、されど彼(か)の時には我が知らるるごとく我知らん(前コリント十三章十二節)
僕ども神の面(かお)を見、神の名彼等の額(ひたい)に在(あ)るべし、彼処(かしこ)には夜あることなく燈(ともしび)の光と日の光とを用いることなし、そは主なる神彼等を照らしたまえばなり(黙示録二十二章の四、五節)

彼処(かしこ)にて朽つべき身体(からだ)は救われ朽ちざる生命(いのち)に入ることができる、しかしてこの世にての難難(かんなん)はことごとく癒(いや)され、愛する者と再び手を握り永久に共に在(あ)ることができる。彼処(かしこ)にて死は再び我等の煩いとなることはできないのである。

この壊(く)つる者は必ず壊(く)ちざる者を衣(き)、死ぬる者は必ず死なざる者を衣(き)るべし(前コリント十五章五十三節)
我等これを知る、我等が地にある幕屋もし壊(やぶ)れなば神の賜う処(ところ)の屋(いえ)天にあり、手にて造らざる窮(かぎり)なく有(たも)つ処(ところ)の屋(いえ)なり(後コリント五章一節)
神彼等の目の涙をことごとく拭い取り、復(また)死あらず、哀(かなし)み哭(なげ)き痛みあることなし、そは前の事すでに過ぎ去ればなり(黙示録二十一章四節)

かくて朽ちざるものを衣(き)せられ面(ま)のあたり神を見ることを得て、罪はもちろん痕跡(あとかた)もなく消え去るのである。その時我等はすでにキリストの新婦(はなよめ)である。

婦(よめ)は潔(きよ)くして光ある細布(ほそきぬの)を衣(き)ることを許さる、この細布(ほそきぬの)は聖徒の義なり(黙示録十九章八節)

我等はその時全(まった)く神に肖(に)たる潔(きよ)きものとなるのである、すなわち彼処(かしこ)にて完全なる聖化が実現せらるるのである。

我等今神の子たり、後(のち)如何(いかん)、未(いま)だ露(あら)われず、その現われん時には必ず神に肖(に)んことを知る、そは我等その真状(まことのさま)を見るべければなり(ヨハネ一書三章二節)
すべて我等顔覆いなくして鏡に照(うつ)すがごとく主の栄(さかえ)を見、栄(さかえ)に栄(さかえ)いや増(まさ)りて、その同じ像(かたち)に化(かわ)るなり(後コリント三章十八節)

罪なく死なく栄光(さかえ)の体に化(か)せられ神と共にキリストと共に又愛するすべての人と共に永久に相(あい)愛して存在するの国、これすなわち来世(らいせい)である、これすなわち天国である、神はこの国を必ず我等に与えんと約束したもう、しかしてその保証はイエス・キリストの血にある、しかして又彼を信ずる者はなおその上に質(かた)として聖霊を与えられる。実(じつ)に神は先(ま)ず十字架をもって我等に絶大の約束を立て、さらに聖霊をもってこれを堅うしたもうのである。イエス・キリストに頼りて我等の希望はただ益々(ますます)確実を増すのみである。

イエス・キリストは是(ぜ)といい又非(ひ)と言うがごとき事なし、彼にはただ是(ぜ)ということあるのみ、すべて神の約束は彼の中(うち)に是(ぜ)となり又彼の中(うち)にアメンとなり我等によりて神の栄(さかえ)の顕(あら)わるるに及ぶ、……神また我等に印(いん)しかつ質(かた)として霊(みたま)を我等の心に賜えり(後コリント一章十九、二十、二十二節)

しかり、聖霊を与えられてより我等の罪は徐々に潔(きよ)められ、神の姿は日々に鮮(あざや)けくなり往(ゆ)くのである。この不思議なる変化の実現は正(まさ)しく来たらんとする生活の質(かた)ではないか。その度(ど)においては遥かに及ばずといえどもその質(しつ)においては全く同一である。天国の反映はすでに地上に現われておるのである。来世(らいせい)の香気(こうき)はすでに現世(げんせい)においてこれを嗅(か)ぐことができる。実(まこと)に今辿りつつあるその途(みち)の果てに必ず我等の福(さいわい)なる行先(ゆくさき)があるのである。指(さ)して往(ゆ)く方向は確かに誤っていない、否(いな)歩(ほ)一歩(ぽ)懐(なつか)しき故国の面影(おもかげ)はいよいよ偲(しの)ばれて来る。先導者イエス・キリストに信頼して我等は来世(らいせい)に入ることを少しも疑わないのである。

来世(らいせい)の希望、これありて我等は重苦しき現世(げんせい)の生活をも楽しむことができる。我等の国籍は今や彼処(かしこ)にありて此処(ここ)にあるのではない。我等は「地にありて賓旅(たびびと)である、寄寓者(やどれるもの)である」。この世は宿である、幕屋である。此処(ここ)に我等は永住するのではない、温かき屋(いえ)が彼方(かなた)に俟(ま)っている。神は我等のために新しき京城(みやこ)を備えたもうた、其処(そこ)に入(い)るがための準備をなす処(ところ)が現世(げんせい)である。ゆえに我等の願いを露骨に言わしむるならばむしろ速やかに彼処(かしこ)に移ってキリストと共に在(あ)るの生活に入(い)りたい、

我が願いは世を逝(さ)りてキリストと共に在(あ)らんことなり、これ最も美(よ)き事なり(ピリピ一章二十三節)

しかしながら肉体に止(とどま)りてその準備をなすは刻下(こくか)の急務である。ただに我自身のためのみではない。未(いま)だかの驚くべき大いなる恩恵(おんけい)を知らず、従って希望を墓より彼方(かなた)に繋(つな)ぐあたわずして人生の空(くう)を歎(たん)じている多くの同胞のため我等は起(たち)て福音を伝えねばならぬ、十字架上に現われし神の愛を証(あかし)して万国の民に示さねばならぬ。見渡せば逸楽(いつらく)と事業と虚(むな)しき知識とに悩まさるる人のみ多くして、真にイエス・キリストによる限り無き恩恵(おんけい)に与(あずか)れる者とては雨夜(あまよ)の星のごとくに寥々(りょうりょう)たりである。しかのみならず却(かえっ)て偽りの証(あかし)をもって福音の妨げをなすものまた決して少なくない。かかる間(あいだ)に我等は選ばれて一日も長く主の事業のために使われんことを祈らざるをえない。我等の希望は来世(らいせい)に在(あ)る、しかして来世(らいせい)のゆえに現世(げんせい)もまた貴(とうと)きものとなるのである。