0x24. 一粒の麦

一粒の麦もし地に落ちて死なずばただ一つにてあらん、もし死なば多くの実を結ぶべし、その生命(いのち)を惜しむ者はこれを失い、その生命(いのち)を惜しまざる者はこれを保ちて永生(えいせい)に至るべし(ヨハネ十二章二十四節以下)

すべて植物の種子は自らその身を保護するの力を有(たも)ち、堅き皮を被(かぶ)りて独(ひと)りその生命(せいめい)を維持せんとしておる。しかし種子がかくいつ迄(まで)も生命(せいめい)を自己の中(うち)に取り込んで守っておる間は決してさらに大いなる新生命(しんせいめい)を得る事が出来ないのみならず、遂には枯死(こし)してしまうであろう。しかるに一粒の麦もし地に落つるならば、たちまちその今までの自己本位を棄(す)てて全身を地に明け渡してしまう。堅き皮は破れ地の養分がその中に入り込んで遂に新しき生命(せいめい)が発芽(はつが)して来る。この事実は到る処(ところ)において年毎(としごと)に繰り返されているので、我等は別に怪しみもしない。しかしよく考えれば奇蹟である。なぜ自ら生命(せいめい)を保(たも)たんとする間は新しき生命(せいめい)が出来(でき)ず却(かえっ)て枯死(こし)の恐れがあるに反(はん)し、地に落ちて自己を全く地に委ぬる時は驚くべき新生命(しんせいめい)が出て来るのであるか。実(じつ)に種を蒔いてその発芽を見るときに、造化(ぞうか)の奇蹟を感じないものはあるまい。しかしこれ動かすべからざる事実である、天然のこの原則は少しの例外もなく古来(こらい)今に至る迄(まで)繰り返されている、実(まこと)にその生命(いのち)を惜しむ者はこれを失い、その生命(いのち)を惜しまざる者はこれを保つべしである。

この事はこれ天然の法則である。しかして天然の法則とは多く神の摂理の一面に過(す)ぎない。神の摂理なるがゆえに真理である。ただに物質界の真理であるのみならず、精神界においてもまた真理である。これは新生命(しんせいめい)発展の法則である。しかして生命(せいめい)はただに肉又は物質においてあるのみならず、霊においてもまたある。否(いな)霊の生命(せいめい)こそは真(ほんとう)の生命(せいめい)の源であって、我等は物質の生命(せいめい)の発展に関するこの法則はむしろ霊の生命(せいめい)の発展に模象(もぞう)されたものであろうと思う。

物質に新生命(しんせいめい)がある、霊にももちろん新生命(しんせいめい)がある。物質の新生命(しんせいめい)はやがて物質と共に又消えてしまわねばならぬ、これに反(はん)し聖霊によりて生まれし霊の新生命(しんせいめい)は永久に朽つる事なき永生(えいせい)である。しからば我等は如何(いか)にして霊の新生命(しんせいめい)を得(う)る事が出来るか、朽つべき人間が朽ちざる永生(えいせい)を取得するの原理は何処(いずこ)にあるか。汚れたる罪人の心に聖霊の宿り込むという法則は何であるか。

イエスはこの問いに答うるに様々の譬(たと)えをもってしたもうた。なかんずくヨハネ伝十二章に掲げられたるこの一粒の麦の譬(たと)えは最も適切通俗(つうぞく)なるものであろうと思う。イエスはこの驚くべき大原理を説明するに難しき哲理(てつり)をもってはしたまわなかった。彼の眼(め)には宇宙の大真理も通俗(つうぞく)ならぬものはない。何となれば木の葉の散るも星の飛ぶも均(ひと)しく大能の摂理であれば、これを説明するに彼をもってするの容易なるは当然の事であるからである。イエスは聖霊獲得の方法如何(いかん)との大問題に答えて、一粒の麦のごとしと言いたもうた。我等は実(じつ)にこの一見全然没交渉(ぼつこうしょう)なるらしき二個の事実の間に、適切正確なる大類似(だいるいじ)を発見するのである。

我等は自己の生命(せいめい)を救い永生(えいせい)の福(さいわい)に入(い)らんと欲して、自らいかほど善行を積み努力修養を重ぬるといえども事は絶対に不可能である。やがて恐るべき死は容赦なく襲い来たりて、我等はすべての所有物(もちもの)をここに遺(のこ)し、すべての望みを失い、寂寥(せきりょう)に悶(もだ)え暗黒に恐れ戦(おのの)きつつ往(ゆ)かねばならぬ。悲惨なるものにして絶望の死のごときはない。しかも我等はこれを脱(まぬが)れんとするもその途(みち)を知らないのである。いわゆる力(ちから)山(やま)を抜(ぬ)き気(き)世(よ)を蓋(おお)うの英傑(えいけつ)といえども、自己に頼りて永生(えいせい)を獲得せんとするはあたかも木に縁(よ)りて魚(うお)を求むるの痴愚(ちぐ)を学ぶのである。

ここにおいて一粒の麦は我等に範(はん)を垂(た)るるのである。落ちよ、死せよ、死して全身を地に明け渡せよと。地はその抱有(ほうゆう)する豊かなる生命の材料を提供して麦の落つるを俟(ま)ちつつあるのである。しからばすなわち我等の生命(せいめい)を引き渡すべきその大地は果たして何であるか。

思えばこの謎そのものは必ずしも新しきものではなかった。古来(こらい)人生を悩ましたる最大問題は実に此処(ここ)にあったのである。弱き種(たね)なる我等を発芽(はつが)せしむべき地を尋ねて人は長らくさまようた。その発見に苦しみし時代は長かった。イエスはいま又この解くべからざる謎をもって我等を苦しめたもうのであるか。かく思うて彼の顔を見上げた時にこの千年の謎語(めいご)は忽然(こつねん)として解けたのである。彼である、彼である、彼(か)れ神の独子(ひとりご)イエス・キリストこそすなわち我等の生命(せいめい)を託(ゆだ)ぬべき大地である。謎のこころは今や読むことができた。「人の子栄(さかえ)を受くべき時至れり」(ヨハネ十二章二十三節)と言いて将(まさ)に光栄ある犠牲の死とそれに引き続く復活とを実現せんとしたまえる彼(か)れイエス・キリストに従うて、我等もまた死なねばならぬのである。一切(いっさい)をことごとく棄(す)て去り、ただ十字架を負うて起(た)たねばならぬのである。この罪に汚れし自己を投げ出して全く彼に明け渡さねばならぬのである。その時旧(ふる)き小さき我は死して新しく大いなる我が生まるるのである。自ら保たんとしたる霊を砕いてしまった時に初めてイエスの霊を吸い取ることができるのである。宜(うべ)なり、神の求めたもうものは砕けたる霊なりと(詩篇五十一篇十七節)。彼は善行を要求したまわない、もちろん祭物(さいもつ)を要求したまわない。彼はその独子(ひとりご)イエス・キリストを我等に渡して、ただ信ぜよしからば救われんと促したもう。実(まこと)に我等の救わるべき途(みち)は彼(か)れイエスである、自己に死して彼に生くる時に我等は何の功績(いさおし)もなくして直(ただ)ちに義とせらるるのである。

誠に実(まこと)に汝に告げん、人もし新たに生まれずば神の国を見ることあたわじ……人は水と霊とによって生まれざれば神の国に入(い)ることあたわざるなり(ヨハネ三章三、五節)

新生とは旧生命(きゅうせいめい)の死滅と新生命(しんせいめい)の創造である。水によりて旧生命(きゅうせいめい)を洗い棄(す)て、霊によって新生命(しんせいめい)を享受せずんば、永生(えいせい)は我等に臨(のぞ)まない。しかして旧(ふる)き我を棄て去ってただイエスを主と仰ぐときに、聖霊は必ず我等の胸に宿り永(とこし)えに朽ちざる新しき大生命(だいせいめい)が我等に賦与(ふよ)せらるるのである。何故(なにゆえ)にそうであるかと問うか。我等は知らない。これ神のなしたもう処(ところ)にして我等の眼にはいと奇(あや)しとする処(ところ)である。しかし大いなる真理はみなそうである。我等はその事実たることを知れば足りると思う、しかしてその事実であることは疑いない、一粒の麦の発芽は我等の心霊的実験と相(あい)俟(ま)ちてこれを証明するのである。

一粒の麦もし地に落ちて死なば多くの実を結ぶべしと、これは洵(まこと)に狭き門である。しかしながら生命(せいめい)に至るの門はこれを措(お)いて他に無いのである。