0x31. 蛇のごとく智く鳩のごとく単純

この世に処(しょ)して如何(いか)に振る舞うべきか、すなわちいわゆる処世術(しょせいじゅつ)又は世渡りの道に迷うのは独(ひと)り世間普通の人のみではない、否(いな)我等イエス・キリストの僕(しもべ)として一種特別の人生観を抱く者は一入(ひとしば)この問題に苦しむのである。実(まこと)に我等は金力(きんりょく)権力その他何等(なんら)の勢力を有(も)たない、我等はいわば裸一貫(はだかいっかん)である、我等に何の権謀(けんぼう)術数(じゅっすう)もない。かかる者が複雑なる世に投ずるはあたかも「狼の中に羊の入(い)るがごとき」ものである。ここに大いなる危険がある、我等は如何(いか)にして身を全(まっと)うするのであるか、羊は如何(いか)にして狼に打ち勝つことが出来るのであるか。

イエスの十二弟子が初めて福音を宣べ伝えんがために遣(おく)られた時は丁度(ちょうど)これであった、否(いな)当時の社会の状態と彼等の立場とを考えれば一層危険なるものであった。彼等の処世術(しょせいじゅつ)は実(じつ)にクリスチャンのそれの初穂(はつほ)である。イエスは何と彼等を教えたもうたか、どんな餞別(せんべつ)をもって彼等を餞(はなむ)けたもうたか。

我(われ)汝等を遣(つか)わすは羊を狼の中に入(い)るるがごとし、ゆえに蛇のごとく智(さと)く鳩のごとく単純なれ(マタイ十章十六節)

と(邦訳聖書に鳩のごとく馴良(おとなし)かれとあるは確かに誤訳である)。曰く、「蛇のごとく智(さと)く鳩のごとく単純」、もしこれだけの短き言葉に止(とどま)っていたならばその意味は明瞭ということは出来ない。蛇のごとく智(さと)くとはどんな風に智(さと)いのであるか、鳩のごとく単純とはどんな性質の単純であるか。世にはクリスチャンと称する人々までがイエスの教えを深く味わわないで、自分の浅はかな考えに当てはめてこの言葉を解しているものがないではない。すなわち彼等のある者は言う、我等が世に処(しょ)して利口に振る舞うは決して悪いことではない、むしろキリストの要求したもう処(ところ)であると。彼等はかくのごとく称(とな)えて身の危険を逃(のが)れ避(さ)くるにはなはだ巧(たく)みである。しかしこれ果たしてこの言(ことば)の精神であろうか。否(いな)、断じてそうではない。却(かえっ)てその正反対である。そのことは少しくイエスの教えを注意して研究すれば明らかである。

イエスの教えは決して断片的ではない。四福音書の載(の)する教訓はいずれも深き含蓄(がんちく)と前後の脈絡(みゃくらく)とを有(も)っている。イエスが十二弟子を送りたもうた時の言葉もまたそうであった、彼はこの「蛇のごとく智(さと)く鳩のごとく単純」をさらに親切に説明したもうたのである、

一 慎みて人に戒心(こころ)せよ、そは人(ひと)汝等を集議所(しゅうぎしょ)に付(わた)し又その会堂にて鞭(むちう)つべければなり、又我がゆえによりて侯伯(つかさ)及(および)王の前に曳(ひか)るべし、これ彼等と異邦人に証(あかし)をなさんがためなり(十章十七、十八節)
二 兄弟は兄弟を死に付(わた)し、父は子を付(わた)し、子は両親を訴えかつこれを殺さしむべし、又汝等わが名のためにすべての人に憎まれん(二十一、二十二節)
三 弟子は師より優(まさ)らず、僕は主より優(まさ)らざるなり(二十四節)
四 地に泰平(おだやか)を出(いだ)さんがために我来たれりと思うなかれ、泰平(おだやか)を出(いだ)さんとにあらず刃(やいば)を出(いだ)さんがために来たれり、それわが来たるは人をその父に背かせ女をその母に背かせ嫁をその姑(しゅうとめ)に背かせんためなり、人の敵(あだ)はその家の者なるべし(三十四―三十六節)

蛇のごとく智(さと)くとはこれである。イエスは決して左顧(さこ)右眄(うべん)して巧妙に身を処(しょ)せよと教えたもうたのではなかった。彼はその反対に汝等は危険を避くることが出来ないのである、イエスの弟子はイエスの名のために苦しめられ迫害せられその近親より疑われ憎まれ敵として取り扱わるるの運命を有(も)っておるのであると宣告したもうたのである。しかしてこの事を明白に覚悟するのがすなわち彼のいわゆる「智(さと)く」である。あたかも蛇が頭(かしら)をもたげて危険の所在を十分知り抜くがごとくである。イエスの弟子となった者は世に処(しょ)するに当たって先(ま)ず第一に、自己の将来の境遇は異常なる苦痛、迫害、危険であることを十分に知り抜かねばならぬ。これを知らずして自らイエスの弟子なりと信じつつ遂に世に囚(とら)われた者の実例は数限りない。かつて善(よ)き信者のごとく見えし者中(なか)ごろ心を変じて世に降(くだ)りし多くの紳士は皆これである。彼等には最初よりこの知恵が欠けていたのである。彼等はイエスの弟子としてこの世を通ることの如何(いか)に艱難危険なることであるかを知らなかった。これを知らずしてはすでにイエスの弟子たるの資格がないのである。この一事を知ることは確かに大いなる知恵である、すべての知恵に勝(まさ)るの知恵である。それゆえイエスは又ある時「主よ何処(いずこ)に往(ゆ)きたもうとも我従わん」と言いし学者に対して答えたもうた、「狐は穴あり空の鳥は巣あり、されど人の子は枕する処(ところ)なし」と(マタイ八章二十節)。しかり人の子の枕する処(ところ)無かりしは我等十分これを知っておる、果たしてしからば彼の弟子もまた同じ運命に遇(あ)わずには済まない、これすなわち人に証(あかし)をなさんがために必要である。イエスの弟子として世に処(しょ)せんとする者が先(ま)ず明白に覚悟せねばならぬのはこの事である。これを知った者は処世術(しょうせいじゅつ)において何よりも大いなるものを知ったのである。

次に鳩のごとく単純なれとはどういうことであるか、イエスは前の四の教訓の終(おわり)毎(ごと)に各々(おのおの)又左(さ)の言(ことば)を附け加えたもうたのである。

一 人(ひと)汝等を解(わた)さば如何(いか)に何を言わんと思い煩うなかれ、その時言うべき事は汝等に賜わるべし、これ汝等自ら言うにあらず汝等の父の霊その内に在(あ)りて言うなり(十九、二十節)
二 されど終わりまで忍ぶ者は救わるべし…我実(まこと)に汝等に告げん汝等イスラエルの諸邑(まちまち)を廻(めぐ)り尽くさざる間に人の子は来たるべし(二十二、二十三節)
三 弟子はその師のごとく僕はその主のごとくならば足りぬべし、……このゆえに彼等を懼(おそ)るるなかれ。そは掩(おお)われて露(あら)われざる者なく隠れて知られざる者なければなり。我幽暗(くらき)において汝等に告げしことを光明(あかるき)に述べよ、耳をつけて聴きしことを屋上(やのうえ)に宣(の)べ播(ひろ)めよ。身を殺して魂を殺すことあたわざる者を懼(おそ)るるなかれ、ただ汝等魂と身とを地獄に滅ぼし得(う)る者を懼(おそ)れよ。二羽の雀は一銭にて売るにあらずや、しかるに汝等の父の許しなくばその一羽も地に隕(お)つることあらじ。汝等の頭(かしら)の毛またみな数えらる、ゆえに懼(おそ)るるなかれ汝等は多くの雀よりも優(まさ)れり。さればおよそ人の前に我を識(し)ると言わん者を、我もまた天にいます我が父の前にこれを識(し)ると言わん(二十五―三十二節)
四 我がために生命(いのち)を失う者はこれを得(う)べし(三十九節)

イエスは先(ま)ずその弟子が世の人に見ることの出来ないような大いなる艱難、苦痛、迫害、危険に遭(あ)うことを免(まぬか)れないという警告を発して、しかる後これに対するの心得(こころえ)を述べたもうた。彼は決して「ゆえに汝等十分研究して予(あらかじ)め避難の道を講ぜよ」とは教えたまわなかった、彼は決して「汝等の智嚢(ちのう)を絞り汝等の手段方法を尽くして身を全うせよ」とは教えたまわなかった。むしろその正反対である。彼は言いたもうた、「自ら思い煩うなかれ、ただ愛の父に委(まか)せよ。父を信頼して終わりまで忍ばば必ず救わるべし。否(いな)、終わりまでといわず、中途にしてすでに我汝を救わんがために来たらん。我自身汝等以上の経験を嘗(な)めて汝等に模範を示す者である。ゆえに我と同様の運命に遇(あ)うことをむしろ満足せよ。かくのごとく愛の父なる神と我とに絶対的に信頼せば汝等何(なん)の恐るる処(ところ)もない。否(いな)、ただに迫害を耐え忍ぶのみならず、さらに進んで戦いを挑(いど)むべし。帷幄(いあく)の中(うち)に聞きし福音を進撃喇叭(らっぱ)をもって吹奏(すいそう)しつつ野外に突進すべし。神は常に汝等を守りたもうのである、しかして汝等の報いは必ず天において得らるるのである」と。なんと勇ましいかつ恃(たの)もしい命令ではないか。そこに何の利害の打算もない、何の策略も方便もない、何の恐怖も躊躇(ちゅうちょ)もない。ただ神!キリスト!彼に対する信頼あるのみである。すべてをお委(まか)せして全く顧(かえり)みないのである。何等(なんら)の単純!その単純なるだけそれだけ力は強い。この単純無垢(むく)の信仰あるによって我等の処世術(しょうせいじゅつ)は定(き)まるのである。外(ほか)に何も要(い)らない。金力(きんりょく)権力はもちろん、友さえも要(い)らない。ただ主イエス・キリストあれば足りるのである。キリストそのものが我等の処世術(しょうせいじゅつ)であるのである。何となれば「これ汝等自らなすにあらず、汝等の父の霊その中(うち)に在(あ)りてなすなり」であるからである。我等が世に勝つのではない。聖霊我等の中(うち)に在(あ)りて、我等をして世に勝たしむるのである。我等の処世術(しょせいじゅつ)とはただ聖霊を迎えることがそうである。

ああ、蛇のごとく智(さと)く鳩のごとく単純なれと。語は短くして意味は実(じつ)に深遠無量である。その前半に大いなる警告の鐘を聞き、その後半に絶対的信頼の福音を聞く。この警告とこの福音とに送られて首途(かどで)を立つにあらずば、我等の征戦(せいせん)に勝利の望みはない。迫害を必期(ひっき)しただ一筋(ひとすじ)に主にのみ頼(よ)り恃(たの)むによって、前途は磐石(ばんじゃく)のごとくに堅いのである。