0x32. 孤独の勝利

イエス・キリストの一生はそれ自体がすでに真理であった。彼はただにその言(ことば)をもって神を顕(あら)わしたまいしのみならず、又その行いをもって真理を顕(あら)わしたもうた。我等は思う、もし聖書の中(うち)より彼の説きたまいし教訓が除き去らるるとも彼の生涯に関する記事が存(のこ)っておる限りは、我等は福音を失わないのであると。実に彼の生涯を探りて数限り無き深き真理を発見するのである。殊(こと)に彼が地上三十年の生活を全く孤独の裡(うち)に過ごしたまいしがごときは、我等のために大いなる教訓を垂(た)るるものなるを憶(おも)わざるを得ない。

第一に彼はその家庭においてすでに孤独であった。もちろん彼は母として聖きマリヤを有(も)っていた。彼女がイエスの生まれる前よりしてその神の子であるとの黙示(もくし)を受けていた事は聖書の記す処(ところ)である(ルカ一章)。しかし聖書は又それと同時に彼が家族の人々より狂人として取り扱われたと記している(マルコ三章二十一節)。マリヤといえども未(いま)だ真(しん)の知己(ちき)ではなかったのである(ルカ二章五十節、ヨハネ二章四節)。まして彼の兄弟は彼を解することが出来なかった(ヨハネ七章五節)。イエスは家庭にあってすでに孤独の人であった。

郷党(きょうとう)の隣人(りんじん)は如何(いかが)であったか。イエスはガリラヤ諸村(しょそん)で多少の信者を得たまいしときにも、独(ひと)り故郷ナザレにおいては人々皆躓(つまず)き遂に厭(いと)うて彼を棄(す)てたとある(マタイ十五章五十四節以下)。「彼は何処(いずこ)よりこの知識を得しや、彼が大工の子にしてヤコブ、ヨセフ等の兄弟なるは我等のよく知る処(ところ)である」と。かくして郷人(きょうじん)はイエスの大(だい)を認めることが出来なかった。彼がキリスト神の子であるとは夢にも思わなかった処(ところ)であろう。実(じつ)に預言者はその故郷にて尊(とうと)ばるることなしである。恐らくガリラヤ諸村(しょそん)のうちナザレ人が最も彼を解し損なったのであろう。

家族しかり郷人(きょうじん)しかり。弟子は如何(いかが)であったか。弟子は最初から彼の人格を慕うて従ったものである。ゆえに何人(なんびと)が彼を誤解しようとも、少くとも弟子だけは彼の知己(ちき)であるべきはずである。しかしてその中(うち)にはペテロもいた、ヨハネもいた。彼等がイエス・キリストの忠実なる宣伝者であったことは事実である。しかしそれは後(のち)のことであった。イエスのこの世に在(あ)りたまいし間(あいだ)弟子等(たち)の信仰はなお見すぼらしきものであった。十二人の中(うち)最も勝(すぐ)れていたるぺテロさえ彼の死を解することが出来なかった(マタイ十六章二十二節)。彼の蹉跌(つまずき)に関するイエスの預言を読んで誰か泣かぬものがあろうか。鶏鳴かざる前に汝三度(みた)び我を知らずといわんと(マタイ二十六章三十四節等)、この悲しき預言は的中した。恃(たの)み甲斐(がい)なきペテロよ、ましてその他をやである。イエスの捕えられし時に、一人(いちにん)の彼のために生命(いのち)を棄(す)てんとする弟子が無かったではないか。ゲッセマネ山上の血を注ぎての祈りの時さえ、弟子中の粋(すい)を抜きたるペテロ、ヨハネ、ヤコブの三人が意気地(いくじ)無くも揃(そろ)って居睡(いねむ)りを催(もよお)していたではないか。ああ、大いなる悲劇!大いなる孤独!否(いな)、それ処(ところ)ではない。イエスを裏切りしその人は果たして何人(なんびと)であったか、その名を聞くも憎(にく)しげなるイスカリオテのユダはそもそも何人(なんびと)であったか。

我等はさらに眼を転じて当時の識者(しきしゃ)を見よう。イエスの当時にももちろん学者はあった、宗教家はあった。せめて彼等の中(うち)になりともイエスの知己(ちき)があったであろうか。旧約の預言に精通していた彼等こそイエスのキリストなることを先(ま)ず第一に覚(さと)り得(う)べきはずであった。しかしながら事実は却(かえっ)て正反対であった。彼等は学者、宗教家なりしがゆえに却(かえっ)てイエスを知ることが出来なかった。憐むべきは赤子の心を有(も)たざる智者達者(ちしゃたっしゃ)である。憎むべきは偽善なる学者パリサイの徒(と)である。彼等は相寄って遂に神の子イエスを十字架に釘(つ)けてしまった。祭司の長カヤパがイエスを罪人なりと宣告したその理由は、すなわちイエスが自己をキリスト神の子であると言うたからである。実(じつ)にイエスを識(し)らざりし者にして学者宗教家のごときはない。恐らく今日においてもまたそうであろう。彼等の眼(め)はただこの世に向かって開かれている。ゆえに彼等がイエスの知己(ちき)たらざりしはむしろ神の聖旨(みむね)に出(い)づるのである、これすなわち彼等に対する審判(さばき)であったのである。

当時の国民は如何(いかが)であったか。大多数の群集の行動は無意味なるものであった。彼等はある時にはイエスの教えに驚嘆している(マタイ七章二十八節)、ある時には好奇心をもってぞろぞろと彼の跡(あと)を追うている(マタイ十二章十五節、十九章二節等)、ある時には又喝采(かっさい)しておる(マタイ二十一章九節等)。しかしながら何時(いつ)も彼等には真心(まこころ)がなかった、赤子(せきし)の心がなかった。彼等は到底(とうてい)モップたるに過(す)ぎない。見よピラトがイエスを赦さんと欲してバラバかイエスかと問いし時に、彼等は口を揃(そろ)えてバラバを赦せと叫んだではないか。救い主の出現を待ち望んでいた彼等も、学者や宗教家と一緒になってイエスを十字架につけてしまったのである。彼等は真個(ほんとう)の平民ではなかった。ただ境遇上の平民たるに過ぎずしてその心は矢張(やは)り貴族的であったから、遂に平民の友を認むることが出来なかったのである。

最後に我等の考うべきは罪人と病人とである、社会の弱者である。実(まこと)にイエス自身の宣(のたま)いし通り、心の貧しき者は福(さいわい)なるかな、哀(かなし)む者は福(さいわい)なるかなである。彼等は自己の弱きを知っておる、彼等は自己を投げ出(いだ)すことが出来る、赤子(あかご)の心を抱き得(う)べきは彼等である。ゆえにイエスの同情は偽善なる学者パリサイの徒にはあらずして、憐むべき罪人病者に向かって注がれた。彼は自ら罪人の友をもって任じた、彼は病める者に向かって満腔(まんくう)の同情を有(も)っていた。娼妓(あそびめ)、税吏(みつぎとり)、らい病人、盲者(めくら)、これ等(ら)の者がイエスの友であったのである。そしてイエスに対してとにかく多少の信頼を懐(いだ)いていたものもまた彼等であった。イエスが病者(やめるもの)を癒したまいしは、皆その信仰を認めたもうた上の事であった。「汝の信仰汝を癒せり」とある。イエスの在世中多分最もよく彼を解したと思わるるベタニアのマリヤのごときも悪しき行いをなせる婦人であったと、福音書記者の一人は記しておる(ルカ七章三十七、三十九節)。実(じつ)にイエスの知己(ちき)にしてもし求むべくんば、彼等弱者の中(うち)にあったのである。しかるに彼等の間にイエスを明らかに神の子であると信じていたものはなかった。預言者の中(うち)の最も大いなる者、恐らくかかる程度において彼を解していたものであろう。しからずんば復活を待たずして彼等の間に大いなる信仰が起こりしはずである。畢竟(ひっきょう)彼等といえども人以上のイエスを認むることが出来なかったのである。

ここにおいてイエスの生涯は全然孤独であった。国民彼を知るにあらず、識者(しきしゃ)彼を認むるにあらず、郷人(きょうじん)彼を知らず、家族知らず、弟子また知らず。天涯地角(てんがいちかく)彼はただ一人であった。世にもし寂寥(せきりょう)をかこつべき人ありとせばそれは実(じつ)にイエスであった。何人(なんびと)の孤独か彼に比ぶることが出来ようか。

しかしながら福(さいわい)なるは彼である。人に対して無限の孤独を感じたまいし彼の心は決して寂寥(せきりょう)ではなかった。一人の友を有(も)たざりし彼は却(かえっ)て常に悦(よろこ)びに充(み)ちたる人であった。彼はしばしば人を去りて独(ひと)り寂しき処(ところ)に往(ゆ)きたもうたとある(マルコ一章三十五節、ルカ四章四十二節等)。孤独なる彼が寂しき処(ところ)に往(ゆ)いて何をなしたもうたのであろうか。祈り!しかり心ゆく祈り、その友に言うごとくに面(かお)を合わせて神と言(ものい)うその祈り、これありて彼は寂しくなかったのである。家族は彼を狂人と見た、しかし神はわが愛する子よといいて慰めたもう。郷人(きょうじん)も弟子も彼を解しなかった、しかし父はよくその独子(ひとりご)を知りたもう。識者(しきしゃ)も平民も彼を十字架に釘(つ)けんと焦(あせ)った、しかし父なる神はその国に彼を招きたもうたのである。病人(やめるひと)も罪人も彼の神の子であることを明らかに知り得なかった、しかし窮(かぎり)なき栄光とすべての者を制(おさ)むる権威とは彼に賜わったのである。

汝等散りて各人(おのおの)その属する所(ところ)に往(ゆ)きただ我を一人残さん、されど我独(ひと)りおるにあらず、父我と共にあるなり、……我すでに世に勝てり(ヨハネ十六章三十二、三十三節)

真(まこと)に彼の言(ことば)の通りである。人は皆彼に背を向けて去った。しかし彼は孤独なるがごとくに見えて実(じつ)は大いなる伴侶を有(ゆう)したもうた。父のみは常に彼と共にありて最大の権威を彼に賜うた。すべて神の属(もの)は彼の属(もの)となった(ヨハネ十七章十節)。世は彼を棄(す)てたけれども神は世を彼に与えたもうた。かくして彼を十字架に釘(つ)けたる世は、彼を殺さずして却(かえっ)て自己を殺したのである。この世の主(ぬし)なる罪と死とはその時より権力を失って、イエス・キリストによる聖潔(きよめ)と永生(かぎりなきいのち)とが世を支配するに至ったのである。驚くべき勝利。しかしてこれ孤独の勝利である、世に孤独にして父と共にある者の勝利である、人に知られずして神に知らるる者の勝利である。

しかしてイエスの生涯の孤独はただに神の子の勝利を語るのみではない。すべて真理は常に孤独にして世に勝つものなるを教うるのである。実(まこと)に真理の力あるはその神より出(い)づるものなるがゆえである。真理は相寄って力を増すものではない。真理は寸毫(すんごう)も人に頼るものではない。真理は独(ひと)り立って強い。神によって立って独立は何よりの勢力である。今の人はいう団結は力なりと。しかし真理はそうではない。真理に取っては独立は力である。我等はイエスに倣(なら)い神の事業に与(あずか)るに、決して世の人のごとく共同の力を望まない。もし共同するにあらずば倒るるものならば、初めより神の事業ではないのである。我等は世に与(く)みしない、人の力を頼まない。我等に大いなる伴侶がある、イエス・キリストこれである。彼と共にあって我等は孤独をもって満足する、彼を磐(いわ)として立って独立は感謝すべき恵みである。