0x33. キリスト信者の境遇

イエス・キリストを信じ彼に従わんとする者の現世(げんせい)における境遇は、決して安易(やすらか)なるものではない。否(いな)彼には不信者の知らざる苦労がある。イエスを信ぜざりしならば遭遇(そうぐう)せざるべかりし種々(しゅじゅ)なる特別の患難が彼を俟(ま)つのである。実(まこと)に彼の福(さいわい)なる所以(ゆえん)は境遇以外においてある。イエスを信じて境遇の幸福を期待する者は、甚(はなは)だしく失望せざるをえない。しかしてこの失望のためにイエスを棄(す)てし者は決して少なくないのである。もちろん真(しん)にイエスに顕(あら)われたる神の愛を識(し)りて彼に全生(ぜんせい)を献げたる者に取りては境遇の患難を恐るるの理由はないけれども、聖書に存(のこ)れるイエスの教訓を探りてその特別の意味を知ることは、又信者の大いなる慰籍(なぐさめ)たるに相違ないと思う。

第一 迫害

我等は先(ま)ず山上の垂訓においてこの事に関する福音を発見する。イエスはここに福(さいわい)なるかなとの冒頭(ぼうとう)の下(もと)に、心の貧しき者、哀(かな)しむ者、柔和なる者、飢え渇くごとく義を慕う者、あわれみある者、心の清き者、平和を求むる者及び義しきことのために責めらるる者を挙げたまい、しかしてこれらの人々の福(さいわい)である理由はあるいは天国を有(も)つことができる、あるいは神を見る、あるいは神の子と称(とな)えらるる、その他何(いず)れも神又は天国と親しき関係に立つことを得(う)るによるとの意味を語りたもうた。すなわちこれを換言すれば、彼等は福(さいわい)である何となれば信仰を有(も)つことを得(う)るからであるというに帰着するのであって、畢竟(ひっきょう)信者となるべき者の素質を説明したもうたに過(す)ぎない。話題の主眼は信者その人にある。信者の福(さいわい)について述べんとするに先だち、まず如何(いか)なる人が信者となるべきかを説明したもうたのである。さればそのすぐ次には語調を変え、今までの三人称を棄てて直(ただ)ちに「なんじら」と二人称に移り、なんじらは福(さいわい)なり、何となれば我がために人なんじらを罵(ののし)りまた迫害し偽りて各様(さまざま)の悪言(あしきこと)をいわんと、露骨に明言したもうた。「なんじら」と呼びかけられしは群集にあらずして、特に彼を慕うて山の上まで従い行きし弟子たちである。殊(こと)にわがために迫害せられんとあれば、信者が特別に信仰のために受くる迫害の意味であることは疑うよしもない。ゆえにいわゆる山上の垂訓なる福音の中心は信者そのものにあることは明らかにして、しかもこの説教はイエスのガリラヤ伝道の初期に属するものであるから、すなわちイエスはその伝道の最初より信者の患難に関する福音を高唱(こうしょう)したもうたのである。しかり福音である、ただし患難の福音である。「福(さいわい)なるかな、何となれば我がために患難を受くればなり」と、これ山上垂訓の根本精神である。イエスの眼には患難を離れて信者はなかった、迫害は信者の附(つ)きものである。我がため、すなわちイエス・キリストのための迫害である。信者はイエスのために迫害を受けてもって、いよいよ明らかに彼について証(あかし)をすることができる。又迫害は信者自身をイエスに繋(つな)ぐがためにも必要である。我等は彼のために苦しむだけ多く彼の愛を識(し)るのである。ゆえにこの迫害は信者ならでは経験することができない。又もし真正(ほんとう)の信者であるならばどうしても免(まぬか)るることができない。イエスは今何をも知らずにただ自分を慕うて足下(そくか)に跪(ひざまず)いている少数の弟子達を顧(かえり)みて、彼等が自ら天国を嗣(つ)ぐがために又神の子について証(あかし)をするがために避くべからざる患難を思い同情の念に禁(た)えざると同時に、彼等の人に勝(まさ)りて特別に福(さいわい)なる理由もまた其処(そこ)にあることを教えずしてはやむあたわざるを感じたもうたのであろう。従ってこの事に関する彼の言葉はいたく高調(こうちょう)に達している。

わがために人汝等を罵(ののし)りまた迫害(せめ)いつわりて様々(さまざま)の悪言(あしきこと)をいわん、その時は汝等福(さいわい)なり、喜び楽しめ、天において汝等の報賞(むくい)多ければなり、そは汝等より前(さき)の預言者をもかくせめたりき(マタイ五章十一、十二節)

「天において報賞(むくい)多ければなり」と、我等が特別の迫害を忍び得(う)る最大の理由は此処(ここ)にある。我等はイエスを信じてより最早(もはや)この世に望みを繋(つな)ぐものではない。此世(このよ)は彼世(かのよ)に入(い)るがための準備である、短き間の準備である。しかして此処(ここ)に在(あ)る間に患難を受くることが独(ひと)り自分のみならず他人が彼世(かのよ)に入(い)るがために必要なりとして、特に神よりこれを負わせらるるならば、我等は感謝して受くるのほかはない。これを避くるは、此世(このよ)の幸福のために彼世(かのよ)の栄光を棄(す)つるのである。イエスの名のための迫害であるから、イエスをさえ棄(す)つるならばこの迫害はやむ。ただ彼を棄(す)てよ、しからば之(これ)も得られぬ、彼(かれ)も得られぬ、しかりあるいは万国をも得(う)るかも知れない。かかる試惑(こころみ)はしばしば信者を襲うのである。しかしながらイエスを棄(す)てんとして、彼のみを棄(す)つることができない。彼と共に我が望みを抛(なげう)たざるをえない。否(いな)彼を棄(す)てて、我は我が現在(げんせい)及び将来の生命(いのち)をことごとく棄(す)つるのである。何となれば我等の生命(いのち)は今やイエスを泉として溢(あふ)れて来るものであるからである。我等は天における報賞(ほうしょう)と此世(このよ)における幸福との軽重(けいちょう)をよく知っている。彼(かれ)を棄(す)てて之(これ)を与えんというとも応ずることはできない。いわんや迫害の中(うち)に神は必ず我等を助けたもう。イエス御自身が我等と共に今もなお患(なや)みたもうのである。しからば迫害はむしろ我等に賜う特殊の恩恵(おんけい)である、必要なる恩恵(おんけい)である、我等はその中(うち)に在りて感謝しつつ栄光を顕(あら)わすべきである。

第二 簡素なる生活

信者は富者(ふしゃ)たるあたわずとはイエスの明言したもうた処(ところ)ではない。しかしながら彼は真(まこと)の財(たから)の何であるかを我等に示したもうた。しみ喰い錆(さび)腐(くさ)り盗人(ぬすびと)穿(うが)ちて盗む所(ところ)の地に財(たから)を蓄(たくわ)うるなかれ、しみ喰わず錆(さび)腐(くさ)らず盗人穿(うが)ちて盗まざる所(ところ)の天に財(たから)を貯(たくわ)うべしとは彼の教えであった(マタイ六章十九、二十節)。真(まこと)の財(たから)は地上に積み得(う)べき富(とみ)ではない、天に貯(たくわ)うべき聖霊の賜(たまもの)である。汝等の財(たから)のある所に心もまた在(あ)り。地上の富(とみ)を積まんとするものは、神の事を思わずして地の事を思うものである。人は神とマンモンとに兼(か)ね仕うる事は出来ない(同二十四節)と、これ明白なるイエスの教えである。我等は財(たから)を天に積むと共に地上の富を貯(たくわ)え得(う)るものとは思わない。富者(とめるもの)の天国に入(い)るよりは駱駝(らくだ)の針の穴を通る方が易(やす)いと彼は宣(の)べたもうた(マタイ十九章二十四節)。もちろん富者(とめるもの)は絶対に天国に入(い)り得ないのではない。しかしながら富者(とめるもの)もし信者であるならば、彼は地上の富に自分の心を置くものでない事は明らかである。ゆえに彼はその富をもって自己の生活の裕福を計ることは出来ない。富者(とめるもの)は財産をもって神のために仕(つか)うべし。自己の身を処(しょ)するに簡素なりや否(いな)やは財産の多寡(たか)とは自(おのずか)ら別の問題である。イエスの教えは明らかに生活の簡素を説いておる、

生命(いのち)のために何を食い何を飲み又身体(からだ)のために何を衣(き)んと思い煩うなかれ、汝等空の鳥を見よ、野の百合(ゆり)を見よ(マタイ六章二十五節以下)

と。すなわち自己の生活の裕福を計(はか)るものは信者たらざるの証徴(しょうこ)である。しかしてこの事はイエス御自身の生活を憶(おも)えば一層明らかである。彼を多くの御馳走(ごちそう)もて饗応(きょうおう)せんとて心乱れていたマルタに対して、「汝は多端(おおく)の事により思い煩いて心労(こころづかい)せり、されど必要なるものは僅(わず)か、否(いな)むしろ唯(ただ)一つなり」(ルカ十章四十一、四十二節)と教えたまいしは、イエスの日常の生活の実(じつ)に簡素極(きわ)まるものでありしことを示している。さればイエスと一つになり、イエスのごとく父の聖旨(みむね)を行う事をもって糧(かて)とし、現在すでに溢(あふ)るる恩寵(おんちょう)と未来に享受すべき永生(えいせい)の希望とにて心輝ける信者に取っては、簡素質朴(かんそしつぼく)の生活に安(やす)んずる事の決して偶然でないことを憶(おも)うのである。

第三 偽(いつわ)りの信者との共存

信者を迫害するものは独(ひと)り不信者のみではない。信者と名のるものの間にもある。否(いな)これら偽りの信者より受くる真(まこと)の信者の患難は却(かえっ)て遥かに大きいのである。もし不信者を狼に譬(たと)うべき場合があるとすれば、彼等は狼の装(よそお)いをなせる狼であって紛(まぎ)れもなき猛獣であるが、偽りの信者はこれに反(はん)し羊の皮を被(かむ)りたる狼である。その装(よそお)いは柔和にして気高い。しかし裂けたる口と鋭き爪とがその下に隠れている。なれなれしく人に近づいて実(じつ)はこれを噛(か)まんとするのである。口には主よ主よと称(とな)えてイエスに頼れるもののごとく見せかけ、実はこの世に頼っているのである。その名は信者であるけれども実(じつ)は全くこの世の奴隷である。しかもかかる偽りの信者が信者中の最大部分を占(し)むると聞いては人あるいは驚くであろうけれども、それが事実であることは少しく今日の教会の内情又はいわゆるキリスト教国なるものの状態を知るものの拒(こば)むあたわざる処(ところ)である。しかして彼等に取っては真(まこと)の信者は眼(め)の上の瘤(こぶ)である。これを恐れ憚(はばか)り忌み嫌うこと蛇蝎(だかつ)のごとくである。彼等はむしろ不信者を好む。この世は実(じつ)は彼等の慕う処(ところ)であるから、不信者と提携してこの世の勢力を漁(あさ)り、又真(まこと)の信者を駆逐(くちく)せんと欲する。古来(こらい)誠実単純なる信者を迫害したものはむしろ彼等に多かった。しかしてその手段や実に陰険悪辣(あくらつ)である。教会の歴史はその恐るべき幾多(いくた)の実例を我等に示している。預言者を殺してその墓を樹(た)つる者が彼等である。しかるに彼等はキリスト教の初期以来今日に至るまで絶(た)えた事がないのみならず、その勢力は頗(すこぶ)る侮(あなど)り難(がた)いものがある。我等は時として疑わざるをえない、神はかかる余計なるものを何故(なにゆえ)存置(そんち)したもうのであろうかと。彼等は確かに信者の重荷である。これゆえにイエスは慰めていいたもうた

天国は人(ひと)畑に美(よ)き種を播(ま)くに似たり。人々の寝(いね)たる間にその敵(あだ)来たり麦の中(うち)に稗子(からすむぎ)を播(ま)きて去れり、苗(なえ)生(は)え出(い)で実(みの)りたる時稗子(からすむぎ)も現われたり。主人の僕(しもべ)来たりて曰いけるは、主よ畑には美(よ)き種を播(ま)かざりしか、如何(いか)にして稗子(からすむぎ)あるか。僕に曰いけるは敵人(あだびと)これをなせり。僕(しもべ)主人にいいけるは、しからば我等行きてこれを抜き集むるはよきか。否(いな)、恐らくは汝等稗子(からすむぎ)を抜き集めんとて麦をも共に抜くべし、収穫(かりいれ)まで二つながら長(そだ)て置け、我収穫(かりいれ)の時先(ま)ず稗子(からすむぎ)を抜き集めて焚(や)かんためにこれを束(つか)ね、麦をば我倉(わがくら)に収(おさ)めよと刈る者にいわん(十三章二十四―三十節)

収穫(かりいれ)まで二つながら長(そだ)て置けとある。我等は収穫(かりいれ)まで辛抱せねばならぬ。麦なる信者はキリストによって天国に穫(か)り入(い)れらるる時まで、すなわちこの世に在(あ)る限りは、稗子(からすむぎ)なる似而非(にてひ)なる信者との共存は免(まぬか)れないと明言したもうのである(収穫(かりいれ)に至って彼等が如何(いか)にして抜き集めらるるかは、自(おのずか)ら別個(べっこ)の問題である)。我等は常に偽りの信者と闘いつつただ収穫(かりいれ)の日を待つべきである。何故(なにゆえ)に稗子(からすむぎ)が早く刈り取られないのであろうか。もちろん理由が無くてはならない。イエスはいいたもうた、稗子(からすむぎ)を抜き集めんとして麦をも共に抜くの恐れがあるからであると。すなわち稗子(からすむぎ)を麦と共に収穫(かりいれ)の時まで畑に共存せしむるは、麦を害せざらんがために必要であるというのである。稗子(からすむぎ)が成長するは稗子(からすむぎ)のためではない、麦のためである、麦が収穫(かりいれ)を待たずして棄(す)てらるるがごとき虞(おそれ)のないために置かるるのであると。これは深く味わうべき教えであると思う。偽りの信者は我等の重荷である。しかし彼等あるがため我等には又特別の恵みがある。彼等と闘いつつある間に、我等は知らずしてイエスの福音の純(じゅん)の純(じゅん)なる核子(がいし)を現わし、又これを我がものとしつつあるのである。彼等より受くる迫害を忍ぶ間に神の栄光を輝かすこと多きのみならず、我等自身の信仰もまたこれによって鍛(きた)えらるるのである。しかして収穫(かりいれ)の日が近づけば近づくほど彼等と我等との差違はいよいよ明白となり、遂に最後に彼等は必ずことごとく焚(や)かるるために抜き集めらるるのである。現世(げんせい)は来世(らいせい)のための準備の場所に過(す)ぎない。もし来世(らいせい)のために必要ならば我等は如何(いか)なる闘いをも喜んで闘おう。稗子(からすむぎ)の抜かれざるは一には麦の収穫(かりいれ)を害せざらんがためである、二には稗子(からすむぎ)そのものを抜くに容易ならしめんがためである。かくて偽りの信者はその悪戯(あくぎ)をもって、実(じつ)は真(まこと)の信者の幸福と自己の滅亡とのために準備をなしつつあるのである。

第四 近親よりの孤立

イエス・キリストを信じて次に来たる問題は自家屋内(じかおくない)における悲劇である。彼を主と仰ぎたる者はその身辺(しんぺん)を囲む温かき近親の団欒(だんらん)に一大波瀾(はらん)を起こさざらんとするもあたわない。これ素(もと)より彼の本意ではない。しかしながらイエスは言いたもう、

地に泰平(おだやか)を出(いだ)さんがために我来たれりと思うなかれ。泰平(おだやか)を出(いだ)さんがためにあらず、刃(やいば)を出(いだ)さんがために来たれり。それ我(わ)が来たるは人をその父より、女をその母より、嫁をその姑(しゅうと)より分かたんがためなり。人の敵(あだ)はその家のものなるべし。我よりも父母(ちちはは)を愛(いつくし)む者は我に協(かな)わざる者なり、我よりも子女(むすこむすめ)を愛(いつくし)む者は我に協(かな)わざる者なり(十章三十四―三十七節)

これ実(まこと)に堪(た)えがたき事である。誰(たれ)かイエスを信じてこの事のために泣かざる者ぞ。信者の悲しみはここにある。ここに彼は血肉の愛情と神の子の要求とのディレンマに陥(おちい)るのである。イエスに従わんとして払うべき最大の犠牲はこれである。これを恐れて遂にイエスを棄(す)てた者は決して少なくない。しかし我等はイエスを棄(す)てることはできない。わが救いはただ彼に在(あ)るのである、わが希望はただ彼に在(あ)るのである。しからば立ちて彼に従わんか。わが福音は泰平(おだやか)にあらず刃(やいば)なりと彼は明言したもう、その家の者を敵(あだ)とするにあらざれば我に従うを得ずと彼は教えたもう。しかしてイエスによって神の我等に賜う特別なる恩恵の代価として、これは実(じつ)にやむをえざる犠牲である。イエスはこの谷を一つ隔(へだ)てて我等を待ちたもう、我に従わんと欲せばその谷を超えて来たれと。我等は一度(ひとたび)はここを超えなければならない。しからずんば彼の在(おわ)せる処(ところ)に往(ゆ)いて真(まこと)に彼を主と仰ぐことはできないのである。我等のイエスを信ずるは決してただに自分の救いのみのためではない。もし彼に従う事は自分のみの救いの途(みち)であって、我(わ)が愛する父母(ふぼ)子女(しじょ)とその首途(かどで)において袂(たもと)を別(わか)ったきり永久に再会の望みがないならば、我は独(ひと)り救わるるの恩恵をあるいは拒絶するかも知れない。実(まこと)に「もしわが兄弟わが骨肉のためにならんには、あるいはキリストより絶(はな)れ沈淪(ほろび)に至らんもまた我(わ)が願い」である(ロマ九章三節)。しかし福(さいわい)なる事にイエス・キリストはわが救い主であって、又わが骨肉の救い主である。彼を離れてわが骨肉の救いはない。彼は先(ま)ず近親中より我を選び我を召したもう。しかして我(わ)が彼に従うは、これやがて又骨肉の救いの途(みち)が開かるる本(もと)であるに相違ない。彼は現(げん)に約束したもうのである、

すべて我(わ)が名のために兄弟(きょうだい)姉妹(しまい)父母(ふぼ)妻子(さいし)を離るる者は百倍を受けん(十九章二十九節)

と。ここに百倍とあるは失いたる父母(ふぼ)妻子(さいし)同胞(どうほう)を回復するの意味であることは、同じ教訓を伝えしマルコ伝 の記事を見れば疑うことができない。そこにはさらに註釈(ちゅうしゃく)を加えて、「すなわち兄弟(きょうだい)姉妹(しまい)父母(ふぼ)児女(じじょ)を迫害と共に受けん」とある(マルコ十章三十節)。すなわち近親を離るるは後(のち)にこれを獲(え)んがためである。この希望ありて我等の悲しみは癒さるるのである。堪(た)えがたき悲劇、しかしながら避くべからざる悲劇。我等は神の特別なる恵みを彼等のために祈りつつ、暫(しば)らく近親より孤立せねばならぬ。これ我等自身のためである、又彼等のためである。

第五 地上の天国

イエス・キリストを主と仰ぐものは世よりの迫害を免(まぬか)れないのみならず、近親との禿離(かいり)という最も辛(つら)き経験を嘗(な)め、貧窮(ひんきゅう)の生活に甘んじ、偽りの信者と闘いつつ、しかもなお日に日に新たなる恩恵を感謝し、かつその前途に輝く希望を懐いてこの世の一生を送るのである。少なからぬ犠牲を払い軽からぬ苦痛を負わせらるる裏(うら)には、又特別なる福(さいわい)を恵まるるによりてすべてこれらを忍び得てなお余りあるのである。しかし彼の境遇はこれには止(とど)まらない、その上にもう一つ特別のものがある。信者同志の間に出来る温かき社会である。これは地上の天国と称すべきものである。もちろん人数は少ない、又この世の人の作る社会のような立派な規則制度はない。否(いな)その社会には規則なるものは一もない、ただ愛のみである。イエス・キリストに在(あ)りて結ばるる愛のみである。キリストがその社会の唯一の支配者である。彼は常にその中(うち)に在(あ)りて我等を慰めかつ励ましたもう。しかして彼よりの慰籍(いしゃ)と奨励(しょうれい)とをもって、我等もまた互いに慰め励まし合うのである。我等は必ずしも人よりの同情を欲するものではない。しかしこの世に旅人とし寄寓者(やどれるもの)として存在し来世(らいせい)の窮(かぎり)なき栄光のみを目あてとして進むものが二三人もしくは数十人互いに相識(し)るときは、ここに特別の深き同情は湧き来たらざるをえない。これは不信者の間には見ることのできない深き愛である。かかる愛に繋(つな)がれて、彼等はたとえ諸方(しょほう)に散在(さんざい)孤立(こりつ)すといえども、その間(あいだ)に固(かた)き団結は自(おのずか)ら出来上(できあが)るのである。彼等の真(まこと)の国は天に在(あ)る。そこを望んで彼等は生くるのであるけれども、その天国の小なるものを現(げん)にこの世において握ることを得(え)て彼等は歓喜と感謝とに溢(あふ)れざるを得ない。この社会あるがために彼等の信仰と希望との強めらるることは決して少なくないのである。しかしながら誤解するなかれ、これは今のいわゆる教会ではない、

もし汝等の中(うち)二人のもの地において心を合わせ何事(なにごと)にても求めなば、天に在(いま)す我が父は彼等のためにこれを成したもうべし、そは我が名のために二三人の集まれる処(ところ)には、我もその中(うち)に在(あ)ればなり(十八章十九、二十節)

これは今の教会と根本においてその性質を異(こと)にするものである。これはイエスの名のために二三人のもの心を合わせているのである。ゆえにまた必ずイエスがその中(うち)に在(あ)りたもう。すなわち我等の小なる家庭がそれである。またその外(ほか)に少数の同志がある、しかり少数ではあるが、イエス御自身が加わっていたもうのである。しかして彼の我等を愛したもうその深き愛をもって又互いに相(あい)愛するのである。この社会はこれを実験せずしてその味を想像することはできない。イエスを信じ天国の希望を共にするもののみがこれを味わうことを得(う)るのである。

迫害、貧(ひん)、偽(ぎ)信者との共存、近親者との禿離(かいり)、しかして地上の天国、これ必ずしも信者の境遇の総(すべ)てではあるまい。しかしその主要なるものたるは明らかである。しかして何(いず)れもそのよって来たる所以(ゆえん)を尋ぬれば、一として深き聖旨に出(い)づる恩恵ならざるはない。これを辛(つら)しとし堪(た)えがたしとするは未(いま)だイエスを主と仰がざる人である。我等はすでに自己に降(くだ)りし恩恵と後(のち)に顕(あら)わるべき栄光の絶大なるを憶(おも)うときは、この短き一生の間における暫時(ざんじ)の軽き苦しみを忍ぶがごときは何でもないのみならず、これらの苦しみそのものが又恵みであることを知ってただ感謝の声を発するの外(ほか)ないのである。(マタイ伝研究の一節)