0x34. 誘惑

人はこの世に在(あ)りて種々(しゅじゅ)の誘惑に悩まされねばならぬ。本来(ほんらい)神に象(かたど)られて造られし人が自ら進んで罪を犯すのはずはない。彼の罪はことごとく誘われるのである。人類堕落の起源なるアダムの罪がすでにそれであった。しからば我等は誘惑の絶滅せんことを願うべきか。否(いな)我等は誘惑なき世にただ安然(あんぜん)と置かれんことを欲しない。我等は誘惑と闘いこれに打ち勝たんことを願う。自由の意思をもって誘惑に引かれず、これを拒絶排斥するの力を与えられんことを願う。すなわち我等の祈りは、

我等を試探(こころみ)に遇(あ)わせず悪より救い出(いだ)したまえ(マタイ六章十三節、ルカ十一章四節)

ではない。邦訳聖書にかくあるは誤訳である。「試探(こころみ)に遇(あ)わせず」ではない、

我等を試探(こころみ)の中(うち)に引き入れたもうことなく却(かえっ)て悪より救い出(いだ)したまえ

である。誘惑来たらば来たれ、我等は彼に遭遇することを恐れない。ただその中(うち)に引き入れらるることなく、彼をして空(むな)しく退却せしめんことを欲するのである。彼の特性は誘(いざな)いではなくして試みである。彼に試みらるるを恐るるに及ばない、ただ彼に誘(いざな)われざるを要する。試みらるれども誘(いざな)われず、これ我等の願いである。しかり願いであるけれどもその力が無い。試みられて誘(いざな)われざることは稀(ま)れである。しからば如何(いか)にしてその力を得ることができるか。

我等はこれを自己の経験に照らして知る、試惑(こころみ)に遭(あ)いて誘(いざな)われんとするときに我等の理想や良心や知識は何(なん)の力ともならざることを。自(みずか)らその事の余りに卑(いや)しくかつ愚かなるをよく弁(わきま)えつつも、なお誘(いざな)われ行く我を引き止むるあたわざるは我等の実験である。この時我に向かって教訓を説くも風馬牛(ふうばぎゅう)である。我等はただかつて同じような試惑(こころみ)に遭遇してしかも遂に誘(いざな)われざりし人が、その切実なる経験をもって我等に同情してくれんことを要求する。彼が側(そば)に立ちて我を慰め、我が左の手を悪魔に渡した時に緊(し)かと右の手を握ってくれるならば、我は誘(いざな)われんとして誘(いざな)わるるをえない。我のみではない、彼もかかる痛切なる試惑(こころみ)に悩んだのである、彼もこの堪(た)えがたき心持ちを味わったのである。しかも遂に動かなかった、遂に踏み止(とど)まった、誘惑は空(むな)しく彼より手を退(ひ)いたのである。その彼がいま我を助くるのである、彼はわが心持ちを隈(くま)なく解してくれる。彼の同情は適切である、かつ有力である。かかる伴侶が我と共に在(あ)るならば、我は試みらるるとも決して誘(いざな)わるることはないのである。

しからばかかる伴侶が世に存在しているか、あらゆる試惑(こころみ)に遭遇してしかもことごとくこれに打ち勝ったという人が果たして在(あ)るであろうか。曰く在(あ)る。ただしただ一人である。天上天下(てんじょうてんか)、古往(こおう)今来(こんらい)ただ一人しかない。彼はすなわちイエス・キリストである。

イエスは神の子である。しかし彼は同時に紛(まぎ)れ無き人間であった。我等と均(ひと)しき血と肉とを備え、空気を吸いパンを噛(かじ)りたもうた。人たるの要素はことごとくこれを具備(ぐび)したもうた。彼が神の子であるとはその聖善(せいぜん)の霊性についていうのであって、肉によればすなわちダビデの裔(すえ)であったのである(ロマ一章三、四節)。従って彼にももちろん誘惑が臨(のぞ)んだ。しかり実(じつ)に我等と全く同じように様々の試惑(こころみ)が常時(いつも)彼を悩ましたのである。ただにユダヤの野の四十日間のみではない。決してそうではない。現に彼の晩年においても大いなる試惑(こころみ)が時々彼を襲うていることを我等は四福音書の記事によって窺(うかが)い知るに難(かた)くない(マタイ二十章二十節、ヨハネ六章十五節、十章二十四節等)。否(いな)ただに又晩年のみならず、三十年の隠れたるナザレ生活もまたそうであったろう。聖書はその事につき何の記録をも残さないけれども、我等はそう信じて差し支えはない。彼は何処(どこ)までも人に相違なかったのである。その故郷(ふるさと)にて伝道をなしたまいし時、彼の生立(おいたち)以来の生活を熟知せる隣人は、あの普通人と別に違わなかったイエスに「すべてこれらの事は何処(いずこ)より来たりしや」といいて信ぜざりしに徴(ちょう)しても、思い半(なか)ばに過(す)ぐるものがある(マタイ十三章五十四節以下)。マタイ伝四章等(とう)に載(の)せられたるいわゆるイエスの試惑(こころみ)は決して一時(いちじ)の物語ではない。彼の全生涯を通(つう)じての試惑(こころみ)とそれに対するイエスの態度との縮図に外(ほか)ならぬことは、その記事を翫味(がんみ)して知る処(ところ)である。

第一ここに試惑(こころみ)の種類が三つ示されている。四十日間の飢餓(うえ)の後(のち)に来たれるパンの試惑(こころみ)はその一である、聖殿(せいでん)の頂上より身を躍らして万人の喝采(かっさい)を博(はく)せんとする名誉の試惑(こころみ)はその二である、悪魔に跪拝(きはい)して全世界を手に入れんとする富の試惑(こころみ)はその三である。肉慾と名誉と富と、これはこれ人類試惑(しわく)の三大代表者ではないか。我等に迫り来る凡百(ぼんびゃく)の試惑(こころみ)は畢竟(ひっきょう)この三のものをもって代表させることが出来るのである。我等はユダヤの野におけるイエスの三試惑(しわく)を偶然のものとして見逃し去ることは出来ない。ここに深き意味がある。痛切なる肉慾の試惑(こころみ)と赫々(かくかく)たる名誉の試惑(こころみ)と強大なる富の試惑(こころみ)と、この三に遭遇するはすなわち一切の試惑(こころみ)に遭遇することである、この三に打ち勝つはすなわちあらゆる試惑(こころみ)に打ち勝つことである。かくのごとくに見てこの四十日間のイエスの経験は、実(じつ)は我等の一生に深き関係ある大事件である。

イエスは四十日四十夜食らうことをせず遂に飢えたりとある。イエスもまた人である。永(なが)き間の絶食によって彼の感じたまいし飢餓(きが)の程度はよくこれを想像することができる。実(まこと)に飢餓(きが)の前には徳義も恥もないのが人の例(つね)である。肉の糧に対する痛切なる要求の下(もと)には霊の糧を憶(おも)うがごとき余裕はない。イエスは今この飢餓(きが)に陥りたもうた。しかして彼は人であると同時に神の子である。彼はその飢えを癒すに難(かた)くない。小石の累々(るいるい)たる曠野(あれの)も彼に取っては穀物の倉に均(ひと)しい。彼一たびその神の子たるの能力(ちから)を揮(ふる)いたまわんか、石を変(へん)じてパンとなし得(う)べく、もってその堪(た)えがたき飢えを癒すに足る。事は容易にしてかつ刻下(こくか)の急である。悪魔の心付(こころづ)きしはここであった。ゆえに来たり囁(ささや)いて云(い)う、汝もし神の子ならば命じて石をパンとなせと。人なるイエスの心は動かざらんとするもあたわなかったであろう。しかし彼は知りたもうた、自己の肉慾の満足のために奇蹟を行うは神の子たるの特権を濫用(らんよう)するのである、その時(とき)霊が形を潜(ひそ)めて肉が跋扈(ばっこ)するのである、これすなわち霊の肉に対する降服(こうふく)である、飢えのために神を忘るるものであると。彼はたとえ一瞬の間たりとも父なる神を忘るることはできない。彼の心は動かんとして又父に一瞥(いちべつ)を与えた。しかして限り無き慰籍(いしゃ)と力とはたちまちそこより流れ来たった。肉慾は暫(しば)らくその要求を撤回した。すなわち

人はパンのみにて生くるものにあらず、ただ神の口より出(い)づるすべての言(ことば)による

と。信仰である、信仰である。神を信ずる者は神を忘れ自己の手をもて肉の糧を獲(え)んと欲することはできない。神は我等の必要物(ぶつ)をことごとく知りたもう。我等は一片のパンといえども神与えたもうにあらずんばこれを口にすべきではない。まず神の国とその義とを求めよ、しからばこれらのものは皆汝等に加えらるべしである。(マタイ六章三十二、三十三節)

第一の試惑(こころみ)は見事(みごと)に斥(しりぞ)けられた。しかしたちまち又第二の試惑(こころみ)がやって来た。それは肉慾ほど痛切ではなかったかも知れない。さりながら赫々(かくかく)たる光輝(こうき)をもって眼(め)を眩(げん)せんとする聖殿(せいでん)の絶頂よりの飛躍と天使の奉仕、これ救い主に有(あ)り得(う)べき奇蹟であって神の子にふさわしき名誉である。しかのみならず聖書の言葉までが裏書(うらがき)をしている。如才(じょさい)なき悪魔は今やイエスの武器をもって却(かえっ)て彼を刺さんとするのである。彼の心は又も迷わざるをえない。事は単に自分の肉体の満足のみではない、世を救うための奇蹟である、聖書の言葉の実現である。ここに再び霊性と野心との戦いが開かれた。しかしながらイエスは遂に自己の野心を充(みた)すがために、一瞬時(しゅんじ)たりとも父を忘るることが出来なかった。人なる彼が自己に事(つか)うるときは、すなわち父なる神を離るる時である。これ彼の忍ぶあたわざる処(ところ)であった。彼は神をして自己に仕(つか)えしむることは出来なかった。主たる汝の神を試(こころ)むべからずと、父に対する一瞥(いちべつ)は又も彼をして試惑(こころみ)に打ち勝たしめた。

肉慾彼を誘(いざな)うべからず、名誉また彼を惑(まど)わしむるに足らず。ここにおいて残る処(ところ)は唯(ただ)一あるのみである。富!肉慾ほど痛切ではないかも知れない、名誉ほどきらびやかではないかも知れない。しかし人の心を誘(いざな)う力の強大なるかくのごときは又少ないのである。今の世において殊(こと)にそうであるが、二千年の昔においても多く異なる処(ところ)はなかったであろう。富は実力である、権威である。肉慾に淡(あわ)く空名(くうめい)に憧れざる着実(ちゃくじつ)の士(し)にしてこの試惑(こころみ)の前に膝を屈したる者は幾何(いくばく)ぞ。悪魔に取りて今は最後の手段に訴うべき時である。このゆえにその提供は思い切って大きくあった。一時(じ)の満足一時(じ)の冒険ではない、万国とその栄華、これ彼の奥の手である。これを尽くして最早(もはや)彼の手は空(むな)しくなるのである。従ってその要求は今や最も露骨(ろこつ)であった。曰く汝もし俯伏(ひれふ)して我を拝せばこれらをことごとく汝に与うべしと。代価は極めて廉(やす)い、ただ俯伏(ひれふ)して彼を拝するのである。かくのごとくして万国とその栄華は得られるのである。救い主の使命を完(まっと)うするの捷径(ちかみち)はここに在(あ)るのではないか、万国を一日も速く神に献げんがためにただの一度悪魔を拝することは果たして忍び得ざることであろうか。人なるイエスは確かにかかる試みを感じたもうたに相違ない。彼は我等の感ずるすべての試みを感じたもうのである。ここに三たび霊性と欲望との戦いが戦われた。そして三たび父の一瞥(いちべつ)が彼を救うた。殊(こと)に悪魔の態度の鮮(あざ)やかでありしだけ、イエスの心に醒(さ)めたる父の姿もまた鮮(あざ)やかであった。彼は今や聖書の言葉のみをもってしては物足りなかった。彼自身の霊性は先(ま)ず激語(げきご)を放って悪魔の面貌(かお)に痛棒(つうぼう)を喰らわしめた。曰くサタンよ退けと。実(じつ)にこれで足りるのである。しかし聖書の言葉はさらに彼のために最後の止(とど)めを刺してくれたのであった、

主たる汝の神を拝しただこれにのみ事(つか)うべし

と。これである、これである。これで事がきまるのである。肉慾の試惑(こころみ)も名誉の試惑(こころみ)もはた富の試惑(こころみ)も、これさえあれば恐るるに足りない。

かくのごとくしてイエスの試惑(こころみ)は終わった。ついに悪魔彼を離れ天使たち来たり事(つか)うとある。しかし誤解してはならない。繰り返して言う、イエスの一生中再び試惑(こころみ)が臨(のぞ)まなかったのではない。彼の地上の生活は何処(どこ)までも人としての生活であった。ゆえに幾多(いくた)の試惑(こころみ)が絶えず彼を悩ましたに相違ない。ただ闘いの結果はいつもこれであったのである。勝利は常に彼に在(あ)ったのである。試みらるれども遂に罪を犯さず、弱き肉体をもってして霊性の勝利を謳歌(おうか)したもう。その秘訣は外(ほか)にはない、ただ彼の眼が父を離れなかったからである。父の温顔(おんがん)こそは実(じつ)に一切の試惑(こころみ)に勝(まさ)る力であった。これを見守りて悪魔の声は耳の底に達(とど)かないのである。イエスは我等の受くべきすべての試惑(こころみ)を受けて、しかもただ常に父と共に在(あ)りたまいしがゆえに、かつて一度も誘(いざな)われたまわなかったのである。

そのイエス・キリスト今は聖霊により我等の心に宿りたもう。我等は彼の姿を見ない、その声を聞かない、しかし確実にその力を感ずる。彼が十字架上に顕(あら)わしたまいし愛を見て彼の前に跪(ひざまず)きしより、今まで有(も)ちしことなき不思議なる力が現実に我を支配しておることを実験する。眼にて見るあたわざる彼が常に我が伴侶として側(かたわら)に在(あ)り、我を助けたもうことを実験する。彼はわが唯一の伴侶である。事毎(ことごと)に我が訴うる者は彼である。訴えて慰められざるはない。殊(こと)に彼は我等の受くべき一切の誘惑(ゆうわく)をすでに経験したもうたのである。我等は如何(いか)なる誘惑をもって訴うるも彼の応えたまわざるものとては無い、熱き涙と温かくして緊(かた)き手とが常に我を待つのである。

我等が弱きを思いやることあたわざる祭司の長(おさ)は我等に在(あ)らず、彼はすべての事に我等のごとく試みられたれど罪を犯さざりき(へブル四章十五節)

実に恃(たの)もしきものにして彼の同情のごときはない。何となれば弱き我等のすべての経験を自(みずか)ら嘗(な)め、しかもことごとくこれにうち勝ちたもうたからである。彼を伴侶とすることを得て、我等はもはや誘惑を恐れない。来たれ、肉慾、名誉、富の試惑(こころみ)。我はただわが友イエスに赴(おもむ)く。我はただ仰いで彼に訴うる。しかして彼の同情を受くるときに、誘惑の手は自(おのずか)ら我を離るるのである。力は我にない、しかし勝利はある。彼によって我は如何(いか)なる誘惑にもうち勝つのである。