0x41. 十字架を負うの歓び

イエス・キリストをわが主であると感じ、主よと呼びて彼に頼ることは必ずしも難しくない。自己衷心(ちゅうしん)の要求に忠実なる者にして少しく彼の性格について学び得(え)し者に取っては、かく感じかく呼ぶことはむしろ自然である。現(げん)に今日多数の人々が自(みずか)らイエスの弟子なりと称して生活しているのである。慕うべき彼の聖名(みな)を口にして彼に信頼するの心を表わすは決して悪しきことではない。かくのごとくして我等もまた彼の足跡(そくせき)を踏まんと欲するのである。しかしながら彼に従うことは彼を主と呼ぶことのごとく容易ではない。彼の人格に讃美の心を傾倒(けいとう)する者も、彼に従わんとしてしばしば躊躇(ためら)うのである。「もし我に従わんと欲(おも)う者は己を棄て、その十字架を負うて我に従え」と、これ彼の提出したもう要求である。実(じつ)に難問である、人生最大の難問である。我等はイエスの生涯殊(こと)にその死を憶(おも)うときは、自(みずか)らもまた十字架を負うて彼に従うの、すなわち彼に酬(むく)ゆるの所以(ゆえん)であることを知り、彼の要求の決して過当(かとう)ならざるを思う。しかして又幾度(いくたび)かこれを実行せんと試むるのである。しかしながら事は実(じつ)に容易ではない。十字架!これを彼方(かなた)に置いて仰ぎ見れば栄光かがやくを覚ゆる。これを自(みずか)ら手にせんとすれば我手(わがて)戦(おのの)くのである。何ぞ主の十字架の貴(とうと)くして己が十字架の厭(いと)わしきや。その罪標(すてふだ)に「ユダヤ人の王イエス」と記されしを見ては実(まこと)に感激に堪(た)えない。しかるに見よそこに我が姓名を記されては我は慄然(りつぜん)たらざるをえない。我は満身の勇気を鼓(こ)してこれを負わんとするも力足りない。強(し)いてこれを肩にせんとすれば、我眼(わがめ)眩(くら)みてもはや主の十字架の栄光をさえも見ることが出来なくなる。その時我が内心もまた我を裏切って言うのである、「汝、田地(でんち)を買いたれば往きて視(み)ざるをえざるにあらずや、汝五(いつ)くびきの牛を買いたればこれを試(こころ)むるために往(ゆ)かずや、汝妻を娶(めと)りたるにあらずや」と(ルカ十四章十八―二十節)。かくして我は遂に十字架を負うことが出来ないのである。自(みずか)ら主よと呼びながらその跡(あと)に随(つい)て往(ゆ)くことが出来ない。自分の要求は何事(なにごと)でも彼の名に託(よ)って祈りながら、ただ一つの彼の要求を受け容(い)るることが出来ない。これ信者の苦衷(くちゅう)である。これを憶(おも)うて心痛まざるものは、偽善者にあらずんば白痴である。

実(じつ)に十字架を負うことは人生の最大問題である。かかる重大にして困難なる問題が自分の力で解決しえようはずはないのである。信者が事をなすに一々(いちいち)祈りを要するならば、ましてこの難問をや。これは祈るに最もふさわしき問題である。祈ってそのままに聴(き)かるべき事柄である。如何(いか)なる祈りが聴(き)かれずとも、この祈りだけは聴(き)かれない心配がない。何となればこれ主の欲したもう処(ところ)である。神御自身の要求である。かかる祈りこそ安んじて主の名に託(よ)って捧(ささ)ぐべきである。今日未(いま)だその時機でないならば願わくは明日これを成らせたまえと、かくのごとくして我は日に日にわが神に迫るのである、朝(あした)より夕(ゆうべ)まで刻々(こくこく)に主の招きを待つのである。その時が何時(いつ)到来するかは知らない、ただ祈りつつ今か今かと待つのである。

かくする内(うち)に主と我との交わりはいよいよ親しみを加える。従来(いままで)襖(ふすま)を隔てて聞きしようなる彼の声は次第に耳元(みみもと)に近くなる、帷(とばり)の陰に蔽(おお)われてありし彼の姿は著(いちじる)しく明瞭に見うるようになる。殊(こと)にその十字架上の姿はいよいよ深き印象をわが心に刻んで最早(もはや)暫(しば)らくも忘れがたくなる。我等のため、特に我がため、かかる死を味わいたまいしと思へば、その限りなき愛の心はわが全心を潤(うるお)して我を囚(とら)えてしまうのである。「キリストの愛我を勉(はげ)ませり」、かくまで彼に愛せられて我心(わがこころ)は酔わざるをえない。今や彼は深くわが衷心(ちゅうしん)の髄(ずい)にまで喰い入っている。彼を振り放さんとするもあたわない。彼を脱(のが)れんがため出(い)でて野に往(ゆ)けば、すなわち彼もまた我と共に野に往(ゆ)くのである。入(い)りて雑踏(ざっとう)の巷(ちまた)に隠れんとするも、彼はなお来たりて我が眼前(がんぜん)に立つのである。眼を閉(と)づれば彼の姿いよいよ鮮(あざ)やかに浮かび、耳を蔽(おお)えば彼の声益々(ますます)冴(さや)かに聞こゆる。睡(ねぶ)りて彼を忘れんとすれば、すなわち夢に彼を見るのである。ああ、神の子イエス・キリストは今やわが恋である。何人(なんびと)も彼に奪われしわが熱情を割(さ)くことは出来ない。我自身といえどもまた奈何(いかん)ともすることが出来ない。彼が招くのである、彼が我名(わがな)を呼びつつあるのである。聞かざらんと欲するも聞こゆる。彼の呼ぶのが明瞭に聞こゆる。ああ呼ぶ、呼ぶ。我は往(ゆ)かざるをえない、誰が往(ゆ)かずとも我だけは往(ゆ)かざるをえない。よしその道は何であろうとも我は往(ゆ)かざるをえない。彼に呼ばれて我が時は来たのである。今や十字架より外(ほか)に我が負うべきものはないのである。美田(びでん)も新妻(しんさい)も五(いつ)くびきの牛も我を止(とど)むることは出来ない。我自身の無力もまた何の妨げにならない。キリストの愛我を余儀(よぎ)なくするのである。彼の手に助けられて十字架は遂にわが肩に上(のぼ)るのである。

かつてこれに触れんとして我手(わがて)戦(おのの)きし十字架は素(もと)より苦痛である、悲哀(ひあい)である。そのことは今といえども少しも変わらない。死はその影である。これを負うて死の苦き杯を飲まざらんと欲するもあたわない。これを持つ手は血と涙とに塗(まみ)れざるをえない。別離の悲哀(ひあい)はどうしても渡らなければならぬ谷である。骨肉の親しみより離れ、生活の保証より離れ、この世の人の幸福と称するすべての条件より離れて、孤独貧窮(ひんきゅう)迫害の衣(きぬ)を着なければならない。これを外側より見て何の美(うつく)しき姿があろうか。何の温かき装(よそお)いがあろうか。十字架は何処(どこ)までも十字架である。これは白金(はっきん)や大理石にて作りし床(とこ)の間(ま)の飾物(かざりもの)ではない。これはかつて棘(いばら)の冠を戴(いただ)きたる人が、その上に両手を展(の)べて血を流したる木の架(かせ)である。これに良き薫(かお)りのするはずはない。死が恐るべきものである以上十字架は恐るべきものである、これを負うは苦痛である、悲哀(ひあい)である。

ああ、しかしながら十字架に絶大の歓びがある。これを負う者の胸にこの世ならぬ歓びがある。外なる人は迫害に悩むとも内なる人はいいがたき歓喜に充(み)ちて、ただ感謝を繰り返すの外(ほか)ないのである。彼の外貌(うわべ)の零落(れいらく)すると均(ひと)しく、否(いな)それよりも遥か以上に彼の胸裏(きょうり)の光景は一変するのである。彼の狭き胸の中(うち)に新しきエルサレムが描かれるのである。天国天国といいて遠き彼方(かなた)墓の向こう側に想像しいたるその神の国が、今や歴然とわが胸裏(きょうり)わが周囲に実現するのである。「我等此処(ここ)に在(あ)りて恒(つね)に存(たも)つべき城邑(みやこ)なし、ただ来たらんとする城邑(みやこ)を求む」。しかしながら我等の希望は空しき想像ではない。この世に在(あ)りて少しも実験するあたわざる空しき想像のみに希望を置くは我等の耐うるあたわざる処(ところ)である。我等は信頼すべき確実なる商人と取り引きをするにもなお見本を取り寄するのである。すなわち彼が見本通りの商品を提供することにおいて信頼して疑わないのである。これ弱いといえば弱いのであろう。しかしながら人生の事実である。これあるがゆえに神を見るにもキリストを要したのである。天国の希望もまたそうである。我等此処(ここ)に在(あ)りて恒(つね)に存(たも)つべき城邑(みやこ)はない。しかし来たらんとする城邑(みやこ)の質(かた)はこれを有(も)つことが出来る。天国の模型はこれを実見(じっけん)することが出来るのである。これを実見(じっけん)して我等の心は安んずるのである。多年ただ想像の裡(うち)にありし新しきエルサレムを今わが身辺に実見(じっけん)して、我はいい知れぬ歓喜に溢(あふ)れざるをえないのである。ハレルヤ!わが故国(ここく)はこれである。わが行先(ゆくさき)はこれである。この世の労働を終えて暮鐘(ぼしょう)の音(ね)に送られつつ、わが帰り行く楽しき家はこれである。かかる家が墓の彼方(かなた)に待つならば、死は実に感謝すべき旅路である。かかる天国の質(かた)を握ること、それが十字架を負うの歓びである。しかして十字架を負うにあらざればこの歓びは味わうことが出来ないのである。

天国とは多分(たぶん)父なる神及(および)主イエス・キリストの愛のほか、何の法則も束縛もなき自由にして平安なる国であろう。今十字架を負いたる我が心はすなわちそれである。主イエスに身を委ねながらなお腐れ縁の切れざる彼(か)の主此(こ)の主に時々は秋波(しゅうは)を送らざるを得ざりし昔の辛(つら)さを、今や奇麗(きれい)に洗い流したのである。今や主の愛のほかに我を縛る縄(なわ)はない。盗賊の来たるがごとく密(ひそ)かに我心(わがこころ)に忍び込むこの世の主を迎うるの苦心(くしん)は要(い)らない。ただ慕わしき主イエスのみのために安んじてわが全生(ぜんせい)を捧(ささ)げまつるのである。彼が右(みぎ)せよと命じたまわんか、何の顧慮(こりょ)する処(ところ)もなく右(みぎ)するのである。彼が左(ひだり)せよと命じたまわんか、唯々(いい)として左(ひだり)するのである。かくして今日(こんにち)彼(かれ)の国に召したまわんか、我は何の後髪(うしろがみ)引かるる思いなくして喜び勇んで出立(しゅったつ)するのである。実に人心(じんしん)を解放するものにして十字架のごときはない。これを負うてあたかも静かなる大洋に漕(こ)ぎ出(い)でたるの感がある。その洋々(ようよう)としてしかも安らかなる光景は、これを実見(じっけん)せざるものに説明することが出来ない。その見渡すかぎり隅(すみ)から隅(すみ)まで暉々(きき)たる日光の照らすに委(まか)せたる壮快なる景色は確かに現世(げんせい)的ではない。此処(ここ)に彼(かの)国の面影(おもかげ)を認むることが出来る。この自由と平安とは多分(たぶん)天国の生活の反映であろうと思う。

天国とは多分(たぶん)純(じゅん)なる無私の愛をもって兄弟姉妹の相(あい)交わる処(ところ)であろう。先(さき)んじて其処(そこ)に在(あ)る者は後(おく)れて来たりし者を迎うるに、相(あい)抱(いだ)いて喜び祝(しゅく)する処(ところ)であろう。十字架を負える者の小さき社会はまたそれである。彼の家庭は今や一点の緩(ゆる)みなき、触(ふ)るれば凛々(りんりん)と鳴り響くようなる純金の愛をもって堅(かた)めらるるのである。彼の先達(せんたつ)は彼を迎えんがために、「遠くより走り往(ゆ)き……いとも善(よ)き服(ころも)をこれに衣(き)せその指に環(わ)をはめ、その足に履(くつ)を穿(はか)せ、又肥えたる犢(こうし)を宰(ほふ)りて共に楽しむ」のである(ルカ十五章)。もしこれをしも天国の質(かた)でないというならば、天国とは望むに足(た)らぬ処(ところ)であると思う。世の人々が悔(くや)みの詞(ことば)をもって見送りつつある間に、同志の者はすでに「所(ところ)を備えて」彼を歓迎するの準備をなしているのである。人生の失敗者のごとくして送り出された時に、彼の恵まれたる新生活が初まるのである。墓の彼方(かなた)の復活もまたかかる者にあらずして何ぞや。我は復活の状態を理論によって断定することは出来ない。しかしその心持(こころもち)はこれを味わうことが出来る。天国における兄弟の交わりはこれを此世(このよ)において経験することが出来る。永生(えいせい)の歓びはすでに今よりこれを感ずる事が出来る。

けだし神はキリストを信ずる者に約束するに永生(えいせい)をもってしたもうた。しかし我等の神は何処(どこ)までも思いやり深き神である。彼はただ約束のみに止(とど)めたまわない。彼は我等の希望を堅(かた)く繋(つな)がんがために約束に添えて質(かた)を賜うたのである。

我等を汝等と共にキリストに堅固(かとう)しかつわれらに膏(あぶら)を沃(そそ)ぎしものは神なり、彼また我等に印(いん)しかつ質(かた)として霊(みたま)を我等の心に賜えり(後コリント一章二十一、二十二節)
それこの事(復活)に応(かな)う者と我等をなしたもう者は神なり、彼(か)れ霊(みたま)をその質(かた)となして我等に賜えり。(同五章五節)
万事(すべてのこと)をその意(こころ)のままに行う者おのれの旨(むね)に循(したが)いて予(あらかじ)め我等を定め、キリストに在(あ)りて嗣子(よつぎ)となることを得しむ……汝等もキリストを信じ我等が業(ぎょう)を嗣(つ)ぐの質(かた)なる約束の聖霊をもって印(いん)せらる(エペソ一章十三節)

げに如何(いか)にも神らしき質(かた)である。この貴(とうと)き質(かた)を与えられて、我等は来たらんとする城邑(みやこ)にすべての望みをかけるのである。しからばこれを受くるがために我もまた何か献(ささ)げ物をなすべきではないか。わが全心(ぜんしん)を彼に捧(ささ)ぐるの印(しるし)として何かふさわしき贈物(おくりもの)がないか。あたかもよしキリスト自(みずか)らその選定をなしたもう。曰く十字架を負えと。これあるかな。聖霊に応(こた)うるに十字架をもってして、神と人との約束は成立するのである。この十字架を負うにあらずんば聖霊は確実に我がものとはならない。神の約束の質(かた)を受くるには、この一つの条件だけは履(ふ)まなければならない。しかしてこれを履(ふ)みさえすれば我は確実に印(いん)せらるるのである。わが行先(ゆくさき)は面上(めんじょう)に記されて、我は紛(まご)う方(かた)なき嗣子(よつぎ)となるのである。すなわち此世(このよ)に在(あ)りてすでに天国を実験し、なおその上に最も確実なる来世(らいせい)の希望を抱くことを得(う)る。これ十字架を負うの歓びである。

およそ神の国のために家あるいは父母(ふぼ)あるいは兄弟あるいは妻あるいは児女(じじょ)を離るる者は、今世(こんせい)にて幾倍を受け来世(らいせい)には永生(かぎりなきいのち)を受けざる者なし(ルカ十八章二十九、三十節)

およそ人の歓びとしてこれよりも大いなるものを想像することは出来ない。十字架の黒き影は死の苦痛である。しかしこれを負う者の胸の中(うち)はかかる歓喜もて輝くのである。彼は慕いまつる主の呼びたもうがままに余儀(よぎ)なくして立ったのであるが、今はその歓喜の絶大なるに驚嘆せざるをえない。かくて彼の残生(ざんせい)はただ感謝感謝の連続である。しかして遂に最後の感謝を遺(のこ)して窮(かぎり)なき栄光に入(い)るのである。