0x43. 感恩の残生

キリストの愛我等を強(し)ゆ、我等思うに一人(にん)万人(ばんじん)のために死したれば万人(ばんじん)すでに死したるなり、その万人(ばんじん)のために死したるは生ける者をして以後(こののち)自己のために生きず、己等(おのれら)のため死して又復活したる者のために生きしめんとてなり(後コリント五章十四、十五節)

キリスト世に在(あ)りたまいし間、日々夜々(ひびよよ)起(お)くるより寝(い)ぬるまで、ただ我等を救わんとの愛よりほか何もなかった。彼は全く自己のために生きずして我等のために生きたもうた。彼に喜びありしか、すなわち我等のための喜びであった。彼に悲しみありしか、すなわちまた我等のための悲しみであった。彼はしばしば独(ひと)り山に入(い)りて深き祈りに耽(ふけ)りたもうた。その時彼の口に上(のぼ)りし言葉は、「我に」又は「我を」にあらずして、ことごとく「彼等に」又は「彼等を」であった。十字架上における最後の祈りはその最も代表的なるものである、

父よ彼等を赦したまえ、そのなす処(ところ)を知らざるがゆえなり(ルカ二十三章二十四節)

彼の感謝もまた常に我等の救いのために喜びたまいし時であった(マタイ十一章二十五節、ヨハネ十一章四十一節)。彼に又大いなる苦しみの祈りがあった、

吾(わが)父よ、もしかなわばこの杯(さかずき)を我より離(はな)ちたまえ、されど我が心のままを成さんとするにあらず、聖旨(みこころ)に任(まか)せたまえ(マタイ二十六章三十九節)
今我(わ)が心憂え悼(いた)めり、何を言わんや、父よ、この時より我を救いたまえと言わんか、否(いな)これがために我(わ)れこの時に至れるなり、願わくは父よ、汝の名の栄(さかえ)を顕(あらわ)せ(ヨハネ十二章二十七節)

ただにこれのみではない、十字架上にて天地暗黒(くらやみ)となりし後(のち)大声にて呼ばわりたまいしというかの有名なる

エリ、エリ、ラマ、サバクタニ(我(わが)神、我(わが)神、何ぞ我を棄てたもうや)

のごとき、彼の最も深刻なる苦痛の迸(ほとばし)りであって、その果たして如何(いか)なる心をもってかく叫びたまいしかは深き研究を要するのである。あるいはこれらの危機に臨(のぞ)みては、イエスもまた自己の事をもって訴えたまわざるをえなかったのであろうか。「我」、「我」とのみいいて、毎時(いつも)のように「彼等」のために祈りたまいしものではないように見ゆる。しかしながらこの貴(とうと)き祈りの意味を解(かい)するがためには、彼を我等の立場に置いては大いなる謬(あやまり)である。彼の立場に我等を置いて見なければわからない。暫(しば)しの隙(すき)も無く始終(しじゅう)我等の救いのためにのみ心を砕きたまいし神の子イエスの立場に仮に我等を置いて見て、少しくその心持(こころもち)を窺(うかが)うことができる。我等いうに足らぬものといえども、愛する骨肉(こつにく)又は友人のためにその救われんことを祈って心を痛めし経験がないではない。その時我等の誠(まこと)を籠(こ)め涙を流しての祈りにも拘(かか)わらず、愛する者が益々(ますます)神を離れ暗黒(あんこく)の方へと進んで往(ゆ)いたならば如何(いかが)であろうか。その時我に取って彼の堕落、彼の叛逆より苦しいものはないのである、彼のゆえに我は胸を抉(えぐ)らるるのである、彼のゆえに我は神より棄てられしかのように感ずるのである。我の苦しみを癒すの途(みち)は他(ほか)ではない、彼が神に立ち帰ることである。悪しき子を有(も)ちたる親の心がそれである。かかる親が悲しみの余(あま)り神よ何ぞ我を棄てたもうやと祈りしと聞いて、彼が自己の事を訴えたるものと解すべきであろうか。子ゆえに彼は生き甲斐(がい)あるを感ずるのである。彼が「我」というはすなわち彼の子の謂(いい)に外(ほか)ならない。子のそむく事すなわち彼の苦痛である。子の棄てらるる事すなわち彼の棄てらるる事である。キリスト三年の証(あかし)をもってして、人は未(いま)だ自己の罪と神の愛とを覚(さと)らず、却(かえっ)てその叛逆を重ねて遂に神の独子(ひとりご)を磔殺(たくさつ)せんとす。ここに彼の堪(た)えがたき苦痛なきをえんや、ここに彼の深き失望なきをえんや。もし聖旨(みこころ)にかなわばこの時より我を救いたまえと祈りて、彼はすなわち我等の知らざる時に我等自身の最も願わしき事を代(か)わりて祈りたもうたのであった。

我等は祈るべき処(ところ)を知らざれども、聖霊自(みずか)ら言いがたきの歎(なげ)きをもって我等のために祈りぬ(ロマ八章二十六節)

とはキリスト在世(ざいせい)の間よりすでに実現せられたる真理である。実(じつ)に愛の熱火(ねっか)は彼と我との区別を焼き尽くさずんばやまない。キリストの心に我等はもはや他人ではなくなった。「彼等」と呼びたもう余裕はなくなったのである。エリ、エリ、ラマ、サバクタニと訴えたまいし時キリストの信仰薄らいだのであるなどと言う者は何人(なんびと)であるか。親の心子知らず、自(みずか)ら子を有(も)ちて初めてこれを知る。自己のためでなくただ愛する人のために熱き涙をもって満腔(まんくう)の祈りを献(ささ)げたる経験を有(も)たざる者は、キリストの苦しみについて語るを暫(しばら)く差し控うべきである。

その在世(ざいせい)の間(あいだ)常にかくのごとく人のすべて思う処(ところ)に過(す)ぐる愛をもって我等のためにのみ生きたまい、しかして終(つい)にその測り難き愛のため却(かえっ)て我等の弑(しい)する処(ところ)となりたもう。しかも驚くべきは彼の愛である。事ここに至りて、彼はその我等を救うがために避くべからざる唯一の途(みち)なることをむしろ喜びたもうたのである、

これがために我(わ)れこの時に至れるなり
我が往(ゆ)くは汝等の益(えき)なり(ヨハネ十六章七節)
我(わ)れ汝等のために所(ところ)を備えに往(ゆ)く(同十四章二節)
これ新約の我が血にして罪を赦さんとて衆(すべて)の人のために流す処(ところ)のものなり(マタイ二十六章二十八節)

汝等いまこの事を覚(さと)らずして我を無きものにせんとす、しかしながら我を離れては汝等は孤子(みなしご)となるのである。これ我の堪(た)えざるところ。ゆえに

我(われ)汝等を捨てて孤子(みなしご)とせず、また汝等に来たらん
我(わ)れ父に求めん、父必ず別に慰むる者を汝等に賜いて窮(かぎり)なく汝等と共に在(お)らしむべし(ヨハネ十四章十六、十八節)

ああ、愛し、憎まれ、いよいよ愛し、遂に殺さるるやなお捨て置くに忍びず、さらに慰むる霊によりて再び来たりたもう。その切々(せつせつ)の愛、その執拗(しつよう)の愛、その無私の愛。天下(てんか)何(いず)くに又かかる大愛(たいあい)を見る事をえようか。試(こころ)みに万国(ばんこく)歴史を繙(ひもと)いて開闢(かいびゃく)以来の偉人、聖人、英雄、豪傑、その名は何であれ、人という人の胸を探りて見よ。ナザレの工人(こうじん)イエスの抱きたるこの愛だけは古往今来(こおうこんらい)絶対にその類例を発見することができない。これのみは実(まこと)に人らしき香(におい)の絶えてせざる純乎(じゅんこ)として純(じゅん)なる愛そのものである。これよりも大いなる、これよりも深き、これよりも熱き、これよりも美わしき愛を想像することはできない。もし神が愛であるというならば、この愛こそはすなわち神の愛ではないか。

かかる愛をもって我等は愛せられたのである、又愛せられつつあるのである。我等のその事を知ると知らざるとに論(ろん)なく、かかる愛は我等の有(もの)となっているのである。しかしてその絶大の恩恵を我等に知らしめんがため、神は又適当なる時に善(よ)き師と善(よ)き友とを送りて我等のために証人(あかしびと)とならしめたもうた。我等は遂に眼が醒(さ)めた。十字架上のイエスを主よといいてうち仰ぐことができた。その時より従来(じゅうらい)想像もせざりし不思議なる恩寵は益々(ますます)豊かに加えられたのである。又現(げん)に加えられつつあるのである。ああ、感激すべきキリストの愛!我等彼に酬(むく)ゆるに何をもってすべきか。

我等は知らない、他(ほか)に方法を知らない。ただ彼がその貴(とうと)き身を我等に渡したまいしごとくに、我等の(汚れたりといえども)身をまた彼に渡すの他(ほか)を知らないのである。我等をして自己に対する所有権を放棄せしめ、ただキリストの僕(しもべ)として生きしめんがために、彼は生命(いのち)までをも捨てたもうたのである。彼は御自身の貴(とうと)き生命(いのち)を代価として我等を贖うがために提供したもうたのである。しからばすなわち我等はもはやすでに価(あたい)をもって買われたる身ではないか。

汝等は汝等の属(もの)にあらざる事を知らざるか、そは汝等は価(あたい)をもって買われたる者なればなり(前コリント六章十九、二十節)

実(じつ)にそうである。我等は今や我等のものではない。我等は自己に死してキリストに生きたのである。現在(いま)の生命(いのち)はこれキリストの我等に預けたまえるものに過(す)ぎない。すでに預け物であるならば、その預け主の欲するがままに使わでは済(す)まぬではないか。これを少しなりとも彼の意思以外我がために使うは、彼のものを窃(ぬす)むに異(こと)ならぬ。彼が如何(いか)に欲したもうかと、それが我が残生(ざんせい)を使用するの唯一の標準である、規矩(きく)である、実(まこと)に「この後(のち)自己のために生きず、我等のため死して又復活したまえる彼のために」生くるのほかないのである。さらば現在(いま)の生命(いのち)を我等に預けたまえる彼の欲したもう処(ところ)は果たして何であろうか。

一切(すべて)のもの神より出(い)づ、彼(か)れキリストにより我等をして己(おのれ)と和(やわら)がしめかつその和(やわら)がしむる職(つとめ)を我等に授(さず)く、すなわち神キリストに在(あ)りて世を己(おのれ)と和(やわら)がしめその罪をこれに負わせず、かつ和(やわら)がしむる言(ことば)を我等に委ねたまえり、このゆえに我等召されてキリストの使者(つかい)となれり(後コリント五章十八―二十節)
天のうち地の上のすべての権を我に賜えり、このゆえに汝等往(ゆ)きて万国(ばんこく)の民にバプテスマを施(ほどこ)しこれを父と子と聖霊の名に入れて弟子とせよ(マタイ二十八章十八、十九節)

神はキリストによって世を己(おのれ)と和(やわら)がしめたもうや、直(ただ)ちに少数の人を召してその和(やわら)がしむる職(つとめ)をこれに授けたもうた。天上天下(てんじょうてんか)すべての権をキリストに与えたまいしに次(つい)で彼の要求したまいし事は、これを万国(ばんこく)の民に証(あかし)する事であった。万人(ばんじん)救済の途(みち)はキリストによって開けたのである。今は此処(ここ)に人を導く案内者を要するのみである。起(た)ちて万国(ばんこく)の民のためにキリストの福音を証(あかし)するの仕事のみが残っているのである。しかも「収稼(かりいれもの)は多くして工人(はたらくもの)は少なし」(マタイ九章三十七節)。田(はた)は色つきて豊かなる神の愛はふさふさと穂(ほ)を垂(た)るるも、人これを顧(かえり)みずして虚(むな)しく飢えに泣いている。骨肉(こつにく)同胞皆そうである。かかる間に独(ひと)り我等のみ召されて、なお暫時(しばし)のこの世の生命(いのち)を預けられたる所以(ゆえん)はもはや疑うべくもない。今や彼の我等に向かって要求したもう処(ところ)は明らかである。政治、産業、富国強兵乃至(ないし)社会改良皆可(か)なり、ただ未(いま)だキリストの愛を知らざる兄弟を如何(どう)してよいのであるか。彼等をもすべて我等と同じく召さんがために、キリストはその貴(とうと)き血を流したもうたではなかったか。キリストの命にかけて愛したまいし彼等を我等が棄て置くことはできない。我等もまたパウロと声を合わせて叫ばざるをえない、

もしわが兄弟わが骨肉(こつにく)のためにならんには、あるいはキリストより絶(はな)れ沈倫(ほろび)に至らんもまたわが願いなり(ロマ九章三節)

と。彼等が救わるるの途(みち)は他(ほか)にあることなし、我等の証(あかし)に俟(ま)つのである。しからば現在(いま)我等に託(ゆだ)ねられたる暫時(しばし)の残生(ざんせい)はいとも貴(とうと)きものといわねばならぬ。肉体とよ、実(まこと)に「肉は益なし、生命(いのち)を賜うる者は霊なり」(ヨハネ六章六十三節)。しかしながら我等の肉体は今やキリストの肢(えだ)である、

汝等の身(み)はキリストの肢(えだ)なるを知らざるか、……汝等の身(み)は汝等が神より受けたる我等の内にある聖霊の殿(みや)にして、汝等は汝等の属(もの)にあらざる事を知らざるか(前コリント六章十五、十九節)

神聖なるかな我等の肉体、これをこの世の事のために消費して可(か)ならんやである。我等の残生(ざんせい)は実(まこと)にただ感恩(かんおん)の残生(ざんせい)である。彼が我等のためにのみ生きたまいしごとくに、我等もまた彼のためにのみ生くるの他(ほか)はない。

わが生けるはキリストのため又死ぬるも我が益なり、されど肉体に在(あ)りて生けることもしわが工(はたらき)の果(み)を結ぶ根本(もと)となるべくば、何(いず)れを選ぶべきか我これを知らず(ピリピ一章二十一、二十二節)

ただ知る、ここになお何時(いつ)までかの残生(のこるいのち)を託(ゆだ)ねられて、世に在(あ)る限り聖霊の導くままに彼の事業に与(あた)ることを 得(え)しめられたというその事の、また特別なる恩恵であっていい難(がた)き感謝を重(かさ)ぬるの他(ほか)なきことを。ああ、感謝のための残生(ざんせい)あり、しかして残生(ざんせい)のために又感謝あり。かくて感謝は感謝を生み、世を去る時までその尽(つ)くるを知らないのである。